2)神山、国際交流の原点
神山アーティスト・イン・レジデンスを企画・開催しているのは、町内のひとたちを中心に結成されたNPO法人グリーンバレー。「できない理由よりできる方法を!」、「とにかく始めろ!(Just Do It!)」といった考え方のもとに、アーティスト支援を始め、道路を地元のひとたちや企業によってきれいにする取り組みアドプト・ア・ハイウェイ、作品発表の場である森を自分たちで整備する「創造の森」の森林管理、空き家の再生や古民家、不動産などを紹介する神山への移住交流支援センター業務、サテライトオフィスの誘致事業、人材育成事業「神山塾」など、2004年の設立以来、地元神山にてさまざまな事業に取り組んでいる団体なのだ。
40年前は「やま」としか呼ばれなかったまちだったのが、「芸術家が住む町」と呼ばれるまではどんな道のりだったのだろう。グリーンバレー代表の大南信也さんにお話をうかがうと、活動の原点は「人形の里帰り」というプロジェクトがもたらしたものが大きかったという。
それは戦前のアメリカと日本との国際交流に遡る。世界恐慌の影響から、日系移民の排斥運動が起きたとき、それを憂いだ親日家のギューリック博士によって日本に平和と親善のために、全米から人形が集められ、日本に贈られた。1万体以上の人形は盛大に迎えられ、日本全国の幼稚園や小学校等に配られている。この答礼として日本国際児童親善会の設立なども行った事業家・渋沢栄一の提唱で、日本から都道府県ごとに「ミス徳島」などとして集められた合計58体の日本人形が寄贈された。
その後、戦争で日本にあった多くのアメリカの人形が鬼畜米英の象徴として焼かれたり、あるいは行方不明になってしまったりしていた。しかし、神山では一人の女性教諭が「人形には罪はない」と物置に隠していたため難を逃れた。1990年、PTA役員として久し振りに母校を訪れた大南さんは小学校の廊下に飾ってある人形を目にした。添えられていたパスポートに、人形の名前はアリス・ジョンストン。出身地はペンシルバニア州ウィルキンスバーグ市と記されていた。まだ人形の送り主は生きているかもしれない、と思った大南さんは、送り主捜しをウィルキンスバーグ市長に依頼。調査の結果、約半年後に送り主判明の報が届く。残念ながら送り主は亡くなっていたが、親戚のひとがいることがわかると、町内PTAや有志で「アリス里帰り推進委員会」を結成。1991年には、その人形とともに、実行委員会たち30人一行で、里帰りを実現。これがペンシルバニア州ウィルキンスバーグ市の熱烈な歓迎を受け、地元の新聞にも大きく報道された。その後、青い目の人形アリスは、戦前に日本の子どもたちが贈った日本人形とともに、カーネギー自然歴史博物館で展示もされた。
大南さん曰く、そのときに開いてもらったパーティーが、当時の日本のものとは全く違っていた。家の裏庭に机を並べて、料理は持ち寄り、三々五々みんなが集まってくるような、まったく形式ばったところがないもの。「なんかもう気持ちええなあという、非常に伝わってくるパーティーでしたね。そして、そもそも訪問するなんてことも、勢いがないとできないようなことだったわけ。こうした言ことばでは伝えることが難しい体験や感覚を仲間で共有できたのはとても貴重な経験だったと思います」。
NPOグリーンバレーの前身である神山町国際交流協会の設立が1992年。その後、米国側が「永遠の友情委員会」を結成、1993年にはペンシルバニア州から訪問団が訪れるなど、両地域の交流は続いた。これが神山の国際交流の原点となる。
「人形の里帰り」の後、1993年には、新任のALT(小・中・高校の外国語指導助手)が徳島県に入って来たときには、神山で3泊4日のプログラムを行うことにして、あのアメリカで受けたパーティーのように、アットホームな雰囲気でALTたちをもてなした。アメリカ人の彼らにとっては自国にいるときのようなもてなしと感じられたかもしれないが、神山や県内のひとたちにとっては「神山って経験のない田舎町なのに、なんでこんな良いパーティーができるの」という反応となった。洗練されたパーティーが田舎での予想外のインターナショナルな出会いを生む。このギャップのある見せ方が価値となり、それを重ねていくことで、まちのイメージが内外に口コミで伝わり、少しずつ周りの目を変えていく。