2)職人的な基礎と、アーティストの発想と
中原木材は、戦後からこの地で営まれてきた。かつては「中原木材工業」として、祖父は戦後、かまぼこ板の木材加工から仕事を始め、父は高度経済成長期に電気こたつの木枠などを製造してきた。
忠弦さんは三代目にあたるが、祖父や父の後を継いだというわけではない。自らのものづくりを探究しながら、長い時間をかけて工場に手を入れ、独自のアトリエをつくりあげ、新生・中原木材を立ち上げた。
かつて、この場所がどんな様子だったのか、知美さんが古いアルバムを持ってきて見せてくれた。工場自体は同じ場所にずっとあって、驚くほど大量の木材が積み上がり、その前に野球のユニフォーム姿の忠弦さん兄弟が立っている。


中原忠弦さんと知美さん
知美:こんなふうにものすごい量の木があって、お義父さんや従業員の人たちが朝からフル稼働で働いて、機械の音が鳴り止まない。そんななかで兄弟が三輪車で遊んだりして。もう細胞レベルで、この環境が刻み込まれているんですよね。
木の匂いと機械音、積み上げられた材木の圧倒的な質量。家族や職人、客が絶えず出入りし、家と仕事場の境界も曖昧な環境で、忠弦さんは育った。木工は、仕事として意識するよりずっと前から、生活の風景そのものとして身体に染み込んでいたのだろう。
忠弦:僕は、いわゆる“普通”の生活をしたことがなくて。広島に行って1年半ぐらい勤めたけど、戻ってきました。帰ってきてから、敷地に離れがあったんで、そこにずっと住んでて。木材で向こうがよくわからないくらいのなかで、木工の本をみながら、なんとなく台みたいなのをつくってました。そのうちに親から、訓練校に行ったらお金がもらえるから、行けって言われて。最初は寮に入ったけど、すぐに逃げ出して、車を買ってくれって親に車を買わせて、往復3時間かけて通ってました。どうしようもないやつですね(笑)。もらったお金は全部飲み代に使っていました。
このときに、カンナやノミの刃を研ぐことをはじめ、木工の基礎を身につけたという。その技術は、忠弦さんのものづくりを支えることになる。
忠弦:僕のつくりたいのはエッジが効いた家具だから、その技術が必要でした。こういう家具を考えたのは、後になってからですけど。今は、そういう技術がなくても見栄えがいいものをつくることもできますけど、逆にこういう方が面白い。
知美:ものの奥深さって、そういう職人技であるとか、見えないところへのこだわりだと思う。やっぱり奥深さというか、見えないところにこだわっているのがわかる、そういうものがいいという人は、一定数いると思うんですよね。
忠弦さんの家具は、独特な造形や素材の組み合わせに、まず目を奪われる。けれどその奥には、表からは見えない基礎仕事の丁寧さと緻密さがある。家業を素直に受け継いだわけではない。けれど確実に生まれ育った環境から身についた感覚と、職業訓練校で磨いた技術は忠弦さんのものづくりの土台になった。そこに自身が親しんできた音楽や映画などのカルチャーが重なり、ものだけでなく、空間にも独自の表現が広がっていく。





工房より。素材や道具があちこちにあるが、カオスではない。定番の「Apollo」は宇宙船アポロ号をデザインに取り入れた。脚の素材や鋲、革の色などでイメージがまったく異なる。「木、火、鉄、革」を、ものや空間づくりの基本的な要素としている


