アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

TOP >>  空を描く
このページをシェア Twitter facebook
#397

音頭と風景、その後
― 下村泰史

IMG_5587

江州音頭の音頭師が祭文節で打ち鳴らす「錫杖」

かつてこの「空に描く」コラムで、音頭と風景」(#324)という記事を書いたことがあった。今回はその後日談である。
今その記事を読むと、江州音頭の面白さ難しさとその現在地について結構うまくまとめてあり、江州音頭そのものについてはあまり付け加えることもないのだが、古い記事といちいち読み合わせるのも面倒なので、一部重複した内容となることをお許しいただきたい。

江州音頭は近江地方(滋賀県)生まれの音頭で、滋賀県はもちろん、京都や大阪など近畿圏で広く、主に盆踊り唄として親しまれているものだ。
「音頭と風景」では、私が盆踊りバンドでギターを弾いていたこと、そこで江州音頭と出会ったこと、科研の研究の中で江州音頭を活かしたワークショップを行ったことや、そこでの気づきなどを書いた。また実際に歌ってみると、その「祭文」部分の難しさや、それが省略された「新江州音頭」の課題についても書いた。「音頭と風景」は、そういったこととワークショップで見えてきた、地域の風景の記憶とを重ね合わせたエッセイであった。

その「祭文節」の部分は、江州音頭をある意味定義づけている要素である。江州音頭は伝説的な起源譚を持っている。それは江戸時代の終わり頃、近江の八日市の歌上手の板前歌寅(西沢寅吉)と、関東から来ていたデロレン祭文芸人の桜川雛山とが出会って生まれたというものである。これはそのまま、地元の音頭と山伏くずれの語り芸の結合を意味するものであった。地元の音頭に由来すると思われる「平節」が数くだり歌われ、「祭文節」に突入すると、同じ七五調の言葉運びではありながら、そのアクセントは移動し、音程も激しく上下し、イエエエエといった音声が挿入され、山伏の小道具のような錫杖が打ち鳴らされるのである。この異質なフレーズが織り込まれることによって、江州音頭は大変スリリングなものとなり、多くの支持をえることになった。明治30年代には大阪千日前の寄席で大変な人気を博し、近江ローカルのものではなくなっていくのである。

こうした起源を顧みても、「祭文節」の存在は江州音頭の構造に組み込まれた本質的なものであることがわかる。これは歌いこなすことの難しいところでもあり、また江州音頭の芸能集団における秘技的な性格とも関わってきた。「音頭と風景」でも触れたが、戦後民主主義の時代には、この「祭文節」の部分が古臭いとか民衆のものではないとかといった批判がなされ、「新江州音頭」が構想されたことなども書いた。
調べていくと、「祭文節」が排除された例は、この「新江州音頭」だけではないことがわかってきた。
江州音頭は八日市から周辺地域に伝播していくに従い、それは多様な変容を遂げていったが、大阪における「改良節河内音頭」や「泉州音頭」の成立過程では、「祭文節」を除外した「平節音頭」や「江州音頭くずし」といったものを経由しているようである。また戦後期における浪曲との結合においても、「祭文節」は外されることがあったようだ。
「祭文節」は、失われやすい性格があるようなのである。時代を経ることによっても、近江を離れることによっても、それは失われてしまうようなのだ。近江の音頭取りたちの間では、「祭文節」の重要さは強く意識されているように思われるが、起源を絶えず振り返り、八日市という場所を意識することなしには、それは難しいことなのかもしれない。

「音頭と風景」を書いたのち、私と江州音頭の関係は新しいフェイズに入った。最後にそのことについて書いておこう。
「音頭と風景」時点では、私は江州音頭風の楽曲を演奏するバンドのメンバーであった。この経験からも多くのものを学んだのだが、今年からは改めて、ちゃんと師匠について江州音頭を学ぶことにしたのだ。実際に差し向かいで伝授を受けると、一体何枚ついていたのかと思うくらいに目から鱗が落ちまくるのであった。特にグルーヴについては完全に認識が改まった。江州音頭のグルーヴは伴奏によって作り出されるのではなく、ことばと声が作るのだ。
それに気づくと、ギターやドラムといったポピュラー音楽の伴奏楽器はむしろ邪魔に思えるようになってきた。習慣的に取られてきたスタイルとはべつに、ことばと声のグルーヴを引き立てる音作りがきっとあるはずであり、音頭がきちんと取れるようになったら、いつか挑戦してみたいと思っている。

参考文献:村井市郎(1994)『河内の音頭 いまむかし』八尾市役所市長公室広報課

(2026年6月7日公開)