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アネモメトリ -風の手帖-

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#396

ことばを手放して、手をひらく
―AI時代に学ぶということ
― 早川克美

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大学で学んでいると、ときどき聞かれませんか。
「それ、なんのために?」「それでどうなるの?」。
社会人として大学に来た人なら、なおさらでしょう。周囲に説明するのも、少し面倒だったかもしれません。そういう問いに、うまく答えられなかった人もいるのではないでしょうか。

でも、答えられなくてよかったのだと思います。

私たちは「目的→手段」の思考にどっぷり浸かって生きています。仕事では当然そうですし、日常でもそうです。何かをするには理由がいる。成果がいる。意味がいる。ことばで説明できないものは、存在しないことにされてしまいます。
AIが当たり前になって、この傾向はさらに強くなりました。効率、最適化、生産性。AIに問いを投げれば、もっともらしい答えが瞬時に返ってきます。便利です。でも、ふと気づくんです。

私たち、はいつの間にか、目的や形式に支配されていないか、と。
意味を説明できなければ価値がない。
そんな枠組みの中で、息苦しくなっていないか、と。

ベトナムの禅僧であり、マインドフルネスの提唱者であるティク・ナット・ハンに、
「幸福への道はない、幸福が道である」ということばがあります。
目的地に向かって走っているとき、私たちは足元の地面の感触を忘れています。
「学びの先に何があるか」ではなく、学んでいる「いま、ここ」が大切なのです。
テストで感じる緊張。テキストを読んで頭が揺さぶられる瞬間。
それ自体が、すでに何か、学びなのです。

ただ座る、ということばがあります。なんのためでもなく、座る。
自己が自己になる。それだけです。ここで学んでいることも、もしかしたらそういうことかもしれません。なんのためでもなく、ただ学ぶ。そこに理由を求めなくていいと私は思います。

面白いもので、「私が私であること」を手放したとき、私のことがよく見えるようになります。
これは逆説ではなく、構造の話です。自分はこういう人間だ、こういうキャリアを積んできた、こういう専門がある。そう握りしめていると、それ以外のものが入ってきません。初心者の心には「何かを達成した」という考えがありません。だから何でも受け取れます。「初心者の心=ビギナーズマインド」とは、何もできない空っぽの弱さではなく、豊かで開かれた強さのことです。
学ぶというのは、ある意味で自分を手放す行為です。知っていたはずのことが揺らぎます。専門や経験を積んできた人ほど、それは怖いものです。でもそれは後退ではなく、手を開くことです。開いた手は、受け取れる形をしています。

そうやって開かれた心から、何かが生まれます。
それは大げさなイノベーションでなくていいのです。ささやかであっても、しみじみとした愉しみを生み出すこと。生活に彩りを与えるような、小さなクリエイティビティです。論文でも、プロジェクトでも、日々の観察でも。自分の手で何かをつくること、考えること、そのこと自体の歓びとなるでしょう。

さて、ここでようやくAIの話をします。
道具や技術は、自由を実現するための補助です。主従を間違えてはいけません。

AIが問いに答えてくれるなら、私たちは問いをつくる側にまわればいい。
AIが効率を上げてくれるなら、私たちは効率では測れないものに時間を使えばいい。

自由には二つの方向があります。ひとつは「制約からの自由」。自分が向かいたい方向へ進むための自由です。もうひとつは「他者のための自由」。自分をリソースとして差し出せる自由です。学ぶことで、この両方の自由が広がります。
AIは使えばいいのです。でも、「使われて」はいけません。道具を持つ手が自由であるために、まず手を開くこと。そこから始めてみてください。

学びの道中で、迷ったり、立ち止まったりすることがあると思います。それでいいのです。迷えるということは、まだ手を開いているということですから。

迷えるという贅沢を大切にしてください。

みなさんがこの大学で過ごす時間が、豊かなものになることを願っています。