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#361

甲斐荘楠音の全貌展をみて
― 加藤志織

加藤 空を描く20230301

みなさん、甲斐荘楠音をご存知だろうか?わたしがこの特異な画家と出会ったのはたしか二十歳前後の頃であった。ある美術館で奇妙というか、風変わりな着物姿の女性像を前にして戸惑ったことを覚えている。その絵が、いいのか・わるのか、上手なのか・下手なのか、見どころがどこにあるのか、さっぱり理解することができなかった。そもそも「甲斐荘楠音」とは人の名前らしいが、なんと読むのかもわからない。どこまでが姓でどこからが名前なのかさえ判然としない。

甲斐荘楠音(明治27年~昭和53年)は、「かいのしょう・ただおと」と読む。京都市上京区の裕福な家に生まれた日本画家で、京都市立銅駝尋常小学校・京都府立京都第一中学校・京都市立美術工芸学校図案科で学び、つづいて京都画壇の重鎮である竹内栖鳳が教鞭をとっていた当時の京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)へと進み、京都市立絵画専門学校の先輩であった村上華岳らと親交を結びながら、大正・昭和の画壇において活躍した。この画家の回顧展「甲斐荘楠音の全貌」が京都国立近代美術館で開催(2023/2/114/9)されている。同展覧会は東京ステーションギャラリーにも巡回予定(2023/7/18/27)である。

甲斐荘の画風は独特で一目見れば観賞者の脳裏につよく印象付けられ、それを忘れることなどできない。その理由の一端は作品からただよう、エロスをまとった言いようのない気味の悪さであろう。事実、2021年に東京と大阪で開催された「あやしい絵展」において、この画家の代表作のひとつである《横櫛》(大正5年頃、京都国立近代美術館)が大きく取り上げられた。こうした「あやしい」雰囲気は、共に京都市立絵画専門学校で学んだ同年齢の日本画家である岡本神草(明治27年~昭和8年)にも見られるが、甲斐荘の方がより強烈で、その「あやしさ」は死をも連想させるものである。それは、いわゆる大正ロマンの文化に共通するデカダンスと言ってもいいのであろうが、そうした退廃的な雰囲気にくわえて、「あやしさ」を感じる要因は表現上の違和感にも関連していると考えられる。わたしが若い頃に感じた戸惑いの原因も、おそらく後者であろう。

大正ロマンを特徴づけるのはデカダンスだけではない。和洋の折衷も重要な要素である。日本は明治維新以後に西洋の文化を急速に受け入れることになる。美術の世界でも、日本初となる近代的な美術教育機関である工部美術学校(明治9年)が設けられて、西洋的な美術教育の下で絵画と彫刻が教えられた。その一方で、工部美術学校が廃校(明治16年)になると、その4年後には東京美術学校が創立されて、今度は伝統的な日本の絵画・彫刻・工芸が教育の対象となる。しかし、西洋美術を含む多様な表現の必要性から、東京美術学校にも明治29年には西洋画科(いわゆる洋画)が設置され、パリに留学し本格的に西洋絵画を学んだ黒田清輝が教授として着任した。この黒田が、西洋の美術を基礎付ける大きな要素である裸体表現、あるいは裸体によって構成された寓意画(「構想画」)の重要性を世に提起して、それが大きな社会問題「裸体画論争」を引き起こしたことはつとに有名である。西洋美術における裸体とは、人間の内面の感情や心理にとどまらず、理念や哲学とった抽象的な概念を表す際の重要なモチーフのひとつと考えられていたが、当時の日本ではいたずらに性的な好奇心を刺激するだけの表現とみなされていた。

このように明治時代からは、伝統的な日本の美術表現(たとえば日本画であれば事物の平面的な描写)と、新たに加わった西洋の美術表現(洋画であれば事物の立体的な描写や奥行きのある空間構成、写実的な描写など)というふたつの軸をもちながら、両者が互いに影響を与えあいながら展開することになる。その西洋美術表現が日本画に与えた変化の一例を、甲斐荘の作品に確認することができる。つまり日本画と西洋絵画という異なる表現の融合を目指した結果が「あやしい」雰囲気につながったと考えられる。そうしたことを今回の「甲斐荘楠音の全貌展」はよく伝えてくれる。

伝統的に日本画で描かれる人体は平面的で、陰影表現も控えめに施され、その厚みや重さを感じさせない。その一方で西洋絵画では陰影をつけて立体的に描かれ、事物の量塊性が強調されることになる。たとえば甲斐荘の《春宵(花びら)》(大正10年頃、京都国立近代美術館)では、画面中央に大きく描かれた太夫と思われる女性の笑顔が、立体的に描写されている。白粉をつけた顔が笑った表情に陰影が施されることで、とても奇妙な表現になっている。この画家はすでに十代の頃よりイタリア・ルネサンス期の巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの作品を画集等で知り感銘を受け、模写することで研究していた。

それは、《島原の女(京の女)》(大正9年、個人像)に見られる、謎めいた微笑をたたえたレオナルド・ダ・ヴィンチ風の表情が示している。また、未完の大作《畜生塚》(大正4年、京都国立近代美術館)では、ミケランジェロの群像彫刻《バンディーニのピエタ》に着想を得たと思われる構図が画面の中央に描かれていると指摘されている。《畜生塚》は豊臣秀吉によって謀反の嫌疑をかけられて自害した豊臣秀次の側室と女官らが三条河原で処刑されたエピソードに基づく。そこには、裸体によって人間精神の表現を目指したミケランジェロの芸術理論からの影響が感じられる。これは、黒田清輝が提唱した裸体によって思想や概念を表す「構想画」が、洋画だけではなく日本画においても試みられていたことを示す例と言えるだろう。さらに、ルネサンス期だけではなく、ほぼ同時代の西洋絵画からの影響も見られる。19世紀後半から20世紀の初めにかけて活躍したルノワールの豊満な裸婦像を連想させる作品が同展には出品されている。

このように、甲斐荘の画業の特徴は、日本画にあえて西洋絵画的な表現方法を取り入れて、それを日本画の画材を用いながら制作することで新しい日本画のあり方を模索したことと言えよう。それが結果として観賞者を戸惑わせるようなかたちで和洋を折衷した不思議な画風の創造につながったと考えられる。甲斐荘の作品をまとめて見る機会は限られている。興味のある方は今回の「甲斐荘楠音の全貌展」をぜひ鑑賞してください。