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アネモメトリ -風の手帖-

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#84

月蝕
― 野村朋弘

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(2014.10.12公開)

先の10月8日に皆既月蝕があり、全国各地で見ることが出来たという。昨今では月食と記されることが多いが、正しくは月蝕である。「蝕」はむしばむと読み、日蝕や月蝕は、太陽や月が欠け、むしばまれるように見えるので、そう記されてきた。
さて、この月蝕は、月が地球の本影に入り、欠けてみえる現象である。赤い満月となる皆既月蝕はとても幻想的で美しい景色といえよう。日本人は月を愛で歌に詠んできたが、こと月蝕に関して歴史を紐解くと、決して好まれていないことが分かる。

日本で最も古い記録は、『日本書紀』の皇極天皇2年(643)5月16日条にある。以来、多くの月蝕の記事が遺されてきた。同じく蝕まれる「日蝕」も多くの記事が遺されている。日蝕や月蝕は、前近代において原因が分かっておらず、また人間への影響がどのようなものかの分からないものであった。照り輝く太陽や月が次第に光を失うさまは、現代人の科学的知識が無い時代において、とても恐ろしい現象だっただろう。こうした日蝕・月蝕は、暦を毎年作成する際に予報されていたが、光を失うものとして、天変の一大事件とされてきた。特に東アジアにおいて日蝕は、国の政治の乱れに対する天からの戒めと考えられてきたほどである。
そのため、日蝕があると予報された日は、朝廷は儀式を停止し、天皇の御所に筵を垂らして、その異常な光が入らないようにしつつ、御祈や読経を行ったという。予報が外れ、日蝕が見られなかった際には、天皇の徳を示すものとされた。

翻って、月蝕は日中の太陽が隠れる日蝕ほどの異常性は少ないものの、やはり同様に御祈や読経が行われている。また日蝕の光を浴びないように筵を垂らすのと同じく、月蝕の夜は、異常な月の光を浴びないため、外出を慎んだ。
そう。いにしえの人々は、月蝕によって欠けた月や、赤い満月を見ることがなかったのである。

そのため、和歌を博捜してみても、月蝕に関するものはとても少ない。偶さか鎌倉時代に編まれた『新後撰集』に「春のころ月蝕を祈りて思ひつづける」として

かすむだに 心づくしの春の月 くもれといのる よはもありけり

を見ることが出来た。これもまた、月を愛でるというものでなく、月蝕が現われないように曇りを祈る歌である。
とはいえ、単にうちに閉じこもっているだけではない。例えば鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』には、将軍である源実朝が北条義時の邸宅に出かけた時、月蝕となり逗留したという記事がある。義時はたいそう喜んだという。これは月蝕に際して身を慎むことや忌避というよりも、それを口実として社交を楽しんだというものである。恐らく饗応として宴が催されたのであろう。

現代であれば天文ショーとして夜空を見上げ月を愛でる機会となった月蝕だが、昔であれば見ることが出来ないものだったのだ。
今日の我々は日蝕や月蝕がどういった現象かを理解している。忌避するのではなく、稀にしか見ることが出来ないものとして、新たに歌を詠むのも一興だろう。

私は、残念ながら今回の月蝕を見ることがかなわなかった。雲が空を覆っていたためである。来年の4月にはまた皆既月蝕がおとずれるという。ぜひ次の機会には、赤い月を愛でたいと思う。