アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

TOP >>  空を描く
このページをシェア Twitter facebook
#109

顔と音楽
― 下村泰史

sora_56

(2015.04.26公開)

だいたい音楽演奏の映像を見ると、みんなまじめである。一心に演奏に集中しているようすが伝わってくる。目を見開いてきびしい顔立ちになっていることもあるし、目を閉じてうっとりと音楽に没入していることもある。笑みを交わしながら身体をゆらしていることもある。クラシックでも、ジャズでもロックでも演歌でもそうである。ブルースギターなどは、顔で弾くとまで言われる。そのくらいに音楽と顔の表情とは結びつけて捉えられている。音楽ビデオの楽しみの一つは、そうした音楽家の音楽への対峙の様子をみることにもあるのだと思う。

先日吹田の国立民族学博物館に行った。ここはいろんなものがあっていつも楽しいのだが、特に音楽関係のコレクションが素晴らしい。オーボエやチャルメラの仲間、さまざまな国に浸透し多様に発展していったギター、アジアのいろいろなゴング、世界中の太鼓類などが展示されているのだが、単に楽器が置いてあるのではなくて、世界中で取材した演奏風景の映像資料も見られるようになっているのである。それを見ていて不思議な感じに打たれた。
東南アジア各地の民族音楽の映像も当然あるのだが、宮廷音楽にせよ山間の素朴なアンサンブルにせよ、演奏家の表情にわかりやすい「一生懸命感」が希薄なのである。風通しの良い的確な音をたたき出しながら、おじさんたちの表情は不思議な落ち着かなさを見せている。淡々としていながら、どこかせわしない。どの顔も自分に没入しているようには見えない。だからといっていわゆるアイコンタクトを交わしているわけでもない。目はカメラを見たり、どこか他のところを見たりしているが、何を目で追っているのかは捉えがたい。表情も、少し怒っているようにも見えるし、晩御飯や女の子のことを考えているようにも見える。感情を読み取るのは難しい。笑っている人はあまりいないように思われた。
この表情が、そこで立ち上り続ける音楽とどう関係しているのかについて正確に論じるのは難しい。ただ似た音楽をした経験から想像することはできる。
おそらくこのおじさんたちは、「自己の内面」「個人の喜怒哀楽」の表現としては音を出してはいないのだと思う。ロマンチックでもソウルフルでもないのである。そういうものではない音楽なのだろう。一方で見られる小鳥のような落ち着かなさは、その場に去来したり生起したりする、音や音でないものに対する鋭敏さを示しているようにも思う(私自身ホーメイ(中央アジアの特殊唱法)のプレイヤーであるが、あの音は自分で出すのではなく、音の方からやってくるものだという実感を持っている)。

音楽については、私達はなんらかの感情の表現だと考えがちである。ポピュラー音楽では特にそうである。しかし他のジャンルをみれば表現というのは感情がらみのものだけではなく、もっと幅広いものだ。また個々人がひねり出すものも良いけれど、素材そのもの、音そのものの自律した不思議さや面白さというものもある。そしてそのへんに関心をもって作られた音楽というのも実は豊富に存在する。現代においても多く作られているし、昔からいろいろな地域でそんな耳をもって生み出されてきた音楽もいろいろあるのだ。何かの力(一種の権力でもあるのだろう)によって、そういったものにアクセスしにくく、また知覚しにくくなっているのだと思う。
どんな力が働いているのかを描写するのはむずかしいが、その力は表情筋の操作にも及ぶようにみえる。さまざまな地域でイベント化されている「よさこい」には、すでに民俗芸能だったころの面影はない。激しいロック調の伴奏に合わせて、若い人たちが「おなじような」笑顔を見せながら舞い踊る。なんでもグループ同士で競い合う大会などもあるらしいが、そこでは「表情」も評価対象になるということだった。大音量で流される既成品のトラックと管理される顔筋。こわばる笑顔。力によって支持される表情。今の私達の前に、メディアを通してにぎやかに現れる顔たちには、むしろこうしたものの方が多いのではないだろうか。ここでは、あのよくわからない表情は不穏なものとして遠ざけられている。

詩歌などという言葉もあるように、音楽と親しい芸術として詩がある。詩というのも個人の感情の発露と思われがちであるけれど、言葉そのものを主題とも素材ともする側面がある。個人の感情を離れて言語の不思議さや面白さをあらわにするのも詩人の大事な仕事である。これも最近の日本ではあまり流行らないようではあるが、その仕事に取り組んでいる詩人は、もしかしたらあの村の楽団のおじさんの顔をしているのではないか。
そしてあのおじさんはこの町にもいて、おちつかない表情で何かを追っているのではないか。そういうおじさんにであってしまったときに、私たちはその表現を受け取ることができるかどうか。そのときに私たち自身もまた試されるのだと思う。