アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#42
2016.08

挑戦し続けることの力

前編 隠岐諸島海士町の取り組みの今 島根・海士町
1)移住9年目。成功ではない、「挑戦」を続けているだけ
株式会社 巡の環 阿部裕志さん1

「島のひとは誰もいまの海士町を『成功事例』だとは思っていません。『挑戦事例』なんです」
取材前のメールでのやり取りでそのような言葉をくれたのは、9年前に海士町に移住した阿部裕志さんである。
今回の取材は、阿部さんのお話を聞くところから始まった。

阿部さんは、「巡の環」という会社の代表取締役を務めている。この会社は「持続可能な地域を創ること」を目指して、海士町で活動している。主に、地域づくり事業、教育事業、メディア事業の3つがその具体的な中身だ。
阿部さんは京都大学の大学院を修了後トヨタに勤めていたが、それまでのキャリアをリセットして海士町に移住した。その経緯は実に興味深いものの、すでにいろんなところに詳しく紹介されているのでここではふれない。
いずれにしても、阿部さんには都会とは異なる暮らしを希求する気持ちがあり、縁があって海士町に来た。それはちょうど海士町が危機的な状況からなんとか持ち直そうと奮闘している2007年のことであった。それから9年が経つのである。

阿部裕志さん。由緒ある村上家の家屋を管理しながら、事務所としている

阿部裕志さん。由緒ある村上家の家屋を管理しながら、事務所としている

———来た当初は、5年がんばってもダメだったら、夢を見るのを諦めて都会でサラリーマンの世界に戻ろうと考えていました。でも、続けられそうだったら、ずっといようと。そして最初の2年間はとにかくこの島について知ることにこだわった。島の外にはほとんど出ずに、この島でひとと会い、飲み歩き、いろんなところに入っていきました。今後この島で長く生きていくつもりであれば、2年ぐらいはそのように使ったほうが絶対にいいと考えました。先のことはわからない。でも、ずっといたい。そういう気持ちだったんです。

「ずっといたい」という気持ちは住むほどに強まっていった。こんなひとがいたのか。こんな歴史があったのか。日々発見をし、島がどんどん身近になっていく。と同時にさまざまな問題も見えてきた。いつしか阿部さんは、そうした問題に向き合い、何をすべきかを考え実行していく人間として、海士町になくてはならない存在となっていった。この町が持続可能になるためにはどうすればいいのか。阿部さんは必死に考え、自分たちにできることを事業化して「巡の環」として行っていった。
具体的には、海士町のビジョンやさまざまな計画をつくる「地域づくり事業」、島外の企業や自治体、大学の研修を海士町で行う「教育事業」、物産の販売や海士町の魅力を発信する「メディア事業」の3つを軸として多様な取り組みを展開している。たとえば、お米やアワビ、ブランドいわがき「春香」といった海士町の特産物をネットで販売する「海士Webデパート」を開設したり、島外の主に企業のひとを対象に、地域の課題解決に挑む海士町のひとたちを映し鏡にして、自己を振り返り、自身のこれからを考え行動するきっかけを提供する学習プログラム「海士五感塾」を開講したり……。
それらの事業は多くのひとを島に呼び込むことになり、ひととひととの新たなつながりを多く生んだ。島の経済にも貢献してきた。

また、他にもさまざまな立場のひとが、それぞれ地道に島の再起のために活動するなかで、徐々に海士町は生まれ変わり、その変革はメディアを通じて全国的に知られるようになっていった。そうして今では、人口2,400人ほどの島ながら、島外から移り住んできたIターンのひとたちが400~500人もいるという状況になっている。

しかし、そのように海士町全体が大きく変化したように見えても、この島が長年抱えてきた根本的な問題は実はそれほど変わっていない。海士町は成功したと世間でもてはやされるなかで、阿部さんたちは変わらず島の問題と向き合ってきた。
問題とはたとえばどういうものなのだろうか。