アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

風を知るひと 自分の仕事は自分でつくる。日本全国に見る情熱ある開拓者を探して。

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#17

主張せず、目的なく、無理なく。“面白い”でつながるパブリックな場
― 山貝征典

(2014.05.05公開)

「まちなかに大学のサテライトキャンパスをつくりたい」。長野市の清泉女学院大学で教鞭をとる山貝征典さんは、そんな思いから場所探しを始めた結果、一軒の古民家と出合った。元は呉服問屋だったというその物件は、母屋に白と黒の蔵2棟からなる築約100年の堂々としたお屋敷。ここに興味を持つ人たちが他にもいるので皆で一度集まってみては、という不動産屋からの提案を受けて出向いたところ、そこで出会ったのはウェブデザイナーやイラストレーターなどクリエイティブな仕事に就く10人のメンバーだった。いっそ皆で蔵を借りてシェアオフィスにしたら面白いのではないかとの意見に全員が賛同し、リノベーションを経て、2012年6月にパブリックスペース「OPEN」が立ち上がった。大学教員として、また「OPEN」のメンバーとして活動する山貝さんが考える、新しい人とまちとのつながりかたとは、一体どのようなものなのだろうか。

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申し出がなければ取り壊される予定だった蔵。大正時代の風格が残る

―「OPEN」を始めるにあたり、コンセプトというものはあったのでしょうか。

最初、僕を含め11人で話をして蔵を共同運営しようと決まった時、誰がリーダーとかそういう取り決めはなくて、すごくフラットな状態だったんです。LLP(有限責任事業組合)という制度を利用して立ち上げたので、代表があってないような状態で。カフェをやりたい人や、お菓子教室をやりたい人、ライターやデザイナーなどが集まって、共同責任でこの場所を運営しましょう、という流れだったので、自然にそうなった感じですね。

僕も含め4人が県外出身で、残り7人は地元の長野県出身なのですが、地元出身者でもUターン組がほとんどです。大学や仕事で県外や海外に行っていたけれど、ここ数年で長野に戻ってきて地元で活動を始めた者同士が出会ったかたちですね。「OPEN」という名前も、全員一致であっさり決まったんですが、開かれた場所っていう意味もあるし、ロゴのデザイン的にもいいかな、と。あとは押しつけがましくない感じがよかったんですよね。

―リノベーションは学生さんたちも参加されたのですか。

はい。学生たちと当初はぶっ壊す作業から始めました(笑)。天井をはいで、照明も取り外して。壁は自分たちで塗りましたし、家具なんかもIKEAで安く調達したりして。大体3ヵ月かかってサテライトキャンパスの場をつくりました。集まった他の事業者もカフェやオフィスなど、それぞれの店舗を自分たちの手でリノベーションしました。あと、 たまたま僕たちの活動を知った東京の某有名建築事務所の女性二人が急に長野にやってきて、設計やコーディネートを手伝ってくれたりしたんです。何も宣伝はしていなかったんですが、Facebookで僕たちの活動を知ったようでして。彼女たちも独立して長野で仕事をしたい、という思いがあったそうなんです。じゃあ、お願いします、ということで会ったその日に頼みました。それでうまくいったんですね。

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リノベーションは LLPメンバーを中心に、学生の手も借りながら進められた

―ではいろんな人の協力があって出来上がったんですね。

やっていくなかで、人とのつながりができるのが大きかったですね。そこが「OPEN」の一番のメリットというか。何でやってるのかというと、そこが大きいかもしれないですね。自然に人の輪が広がって、その結果生業(なりわい)が生まれていて。クリエイターが多いので、メンバー同士がお互いの仕事を手伝ったりすることもあって、コラボレーションになったりしてますね。

―今でも人の輪は広がっているのですか。

用途は別に決まっていないんですが、貸し出しは常に行っていて長野市内の大学のワークショップや地元の方々の会議に使われています。夏だと、庭でビアガーデンもやってますよ。ただ、これは始めたときによく聞かれたことなのですが、これは行政の事業なんですか、という質問が多くて。何故そういうことを言われるのか分からなかったんですが、パブリックで面白いことを補助金をもらわずにやるというのはなかなかない、ということに後で気づいたんです。市からも立ち上げの際、建物の整備費や改修費、またイベント開催に対する補助金の申し出があったんですが、なんだか違う、と思って断ったんですよね。もちろん補助金はあったほうがいいんですが、行政と組んでしまうと結局行政の事業になってしまうし、やりたくないこともやらなくてはいけない。それを避けたかったんです。でも地元の商工会議所や商店街の人たちとも仲良くしていて、町内の運動会に参加したり、町の寄り合いとかにも出るようにはしてるんですよ。それで町の人たちからは割と好印象を持たれているみたいです。

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蔵の前の庭の芝生も自分たちで管理している

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母屋の1階はカフェに、2階は清泉女学院大学のサテライトキャンパスになっている

―すごく良いバランスで地元と溶け込みながら運営されているのですね。

ええ。でも、もともと “まちづくり” というものには興味がないんですよ、僕を含め「OPEN」のメンバー全員。まちを元気にする、っていう意味がそもそもよく分からなくて。まちをつくるって一体何なのか、何をどうするのか、というのがあいまいに思えるんですよね。僕たちははただ具体的なことしかやっていない。面白そう、と思うことをそれぞれやるだけで。僕だったらそれは大学のサテライトキャンパスを街中につくりたい、ということだったんです。

―サテライトキャンパスは具体的にどのように使われているのでしょうか。

これまではメディアアートワークショップと題して、地元の商店街で学生たちが撮影を行って映像作品をつくり、それを皆でそれぞれ壁に映して鑑賞したりしましたし、クレイアニメーションのワークショップもしました。あとは学生と地元の芸人さんがトークライブを行い、その収録内容を地元のラジオ番組で放送する、ということもありました。普段はゼミや講義にも使ってますし、土日や夜間は社会人講座なども開いていますね。

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学生による映像作品の発表もひんぱんに行われている

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子供から大人までさまざまな年代の人たちが集まる

―山貝さんがもともと長野のご出身ではないことも、先入観なく始められた要因のひとつなのかもしれませんね。

サテライトキャンパスをつくろうと思ったのは、僕が長野に来てまだ間もないころだったんです。「OPEN」のある権堂という地区は東京でいう歌舞伎町みたいなところでして。夜の街だったんですね。なので当初は地元の人から何でここにつくるの? とびっくりされましたが、僕は何も知らなかったが故に躊躇なく始められたんです。お年寄りの方からも今では古い蔵を残してくれてありがとう、と喜んでもらっていますし、意外な場所でやるっていうミスマッチ感が面白がられたりしていますね。

―このような地域と一緒に活動していくということは、前職である学芸員の仕事と関連している部分があるのでしょうか。

大学教員になる前に在職していた青森の十和田市現代美術館は、まちとアートが一体化する、というのがコンセプトで、常にまちと一緒に活動していましたから、今の活動は学芸員時代の仕事とつながっている部分はありますね。例えばスガノサカエさんという作家を取り上げた展覧会では、十和田市内のカフェや商店で展示を行いました。展示に加えてカフェで展覧会のオープニングを行ったり、特別メニューを作ってもらったり。また「東北画は可能か?」と題して、東北芸術工科大学で日本画を教えておられる三瀬夏之介先生のプロジェクトも同時期に十和田市内の商店街で開催されることになったので、まちなかでの展示つながり、ということでコラボレーションしたりしました。

―学芸員時代は仕事と並行して、京都造形芸術大学の大学院で学ばれていたそうですね。

仕事をしながら大学院で芸術学を改めて学んでいました。僕が作った造語なんですが『軽芸術』という芸術表現のありかたをテーマに研究していました。匿名性のあるアート、といいますか。『限界芸術』の概念と似ているんですが、いわゆる有名性のあるファインアートではない芸術表現に焦点を当てていました。軽音楽とかライトノベルのような区分がアートにも当てはめられないかな、とも思いまして。芸術に区分があるのか、という議論もあるんですが、ファインアートのなかに「俺を見ろ」と感じさせる作品が多いのが何だか嫌で(笑)。その結果としてグロテスクな表現をするものが結構あるんですよね。それが悪い、というわけではないんですが、疑問を感じて。自分を主張しすぎない匿名性のあるアートを『軽芸術』と呼んで、研究していました。

―現在、大学でもそういった『軽芸術』のありかたを伝えてらっしゃるのですか。

そうですね。現代アート論とか、博物館学などの授業の中でそういったことを学生たちに伝えてはいますね。デザインなんかも『軽芸術』に当てはまるのかな、と思いますし。

―山貝さんの提唱される『軽芸術』という概念は、全員がフラットな立場で声高にコンセプトを主張せず、それぞれの場を作っている「OPEN」のありかたに通ずるところがあるのではないでしょうか。

僕もそれは思っていまして。やり始めた時はあまり意識していなかったんですけど、似ている感覚はあるなあと思うところはありますね。メンバーが大体30代の同世代ということもあって感覚を共有しやすいんですよね。

―先ほどおっしゃられた、“まちづくり”やファインアートのありかたは、40代半ばより上の世代の人たち特有の感覚なのかもしれませんね。そういう意味で『軽芸術』はその後の世代の人たちが共有しやすい感覚ではないかと。

そうですね。僕たちはバブルを経験していないし、わからない。「OPEN」については目的や自己主張が先立っていないというところが『軽芸術』のありかたとリンクしているのかもしれませんね。

―今後、「OPEN」に対する展望は何かありますか。

それがないんです(笑)。もちろん潰れない程度には運営していかなきゃならない、というのはありますが、目標がないのが目標というか。最終的にはこうしたい、と明確な展望はなくて。これからも楽しくできたらいいな、と思っています。活動に対して積極的ではあるけれど、どういう風に今後自分たちが成り上がりたいか、というのがないんです。僕は1977年生まれなんですが、バブル世代の人たちにはなかなかこういう考え方を分かってもらえない。やり方が貧乏くさい、と言われたりしますし(笑)、「OPEN」をビジネスチャンスと捉えて展開しないのか、と投げかけられたりしますけれど、僕らはそういう一攫千金的なやり方を信用していないんですよね。知らない、ということもありますが。目的なく、無理なく、やりたいことをこれからも「OPEN」での活動でやっていければ、と思っています。

インタビュー、文: 杉森有記
2014年3月3日 skypeにて取材

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山貝征典(やまがい・まさのり)

1977年新潟県生まれ。東北芸術工科大学卒業後、十和田市現代美術館に勤務。学芸員としての勤務の傍ら、京都造形芸術大学大学院芸術環境研究領域にて『軽芸術』をテーマに研究。2011年より長野の清泉女学院大学の専任教員として勤務。長野市内にて「権堂パブリックスペースOPEN」の設立に携わり、2012年6月に清泉女学院大学のサテライトキャンパスを設置。大学教員の傍ら、プロジェクトメンバーの一員として「OPEN」の活動に携わっている。

「権堂パブリックスペースOPEN」http://open-gondo.com/

杉森有記(すぎもり・ゆき)

1979年福井県生まれ。同志社大学文学部美学及び芸術学専攻卒業。美術館学芸員、雑誌編集者を経て、現在京都市内のギャラリーに勤務。