アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#36
2015.12

生きやすい世界をつくるためのアート

前編 関係づけて、「保存と活用」するということ
6)言葉が感覚を呼んでくれる
「月の骨」と「陶胎漆器」

1995年、《月の骨》の展示から、松井さんの現在につながる仕事は始まった。 内と外がひっくり返るトポロジカルな、あるいは一体となるような作品は、ヨーロッパと日本で生活し、制作するなかで生まれたかたちでもあると思う。

——ヨーロッパの彫刻はマッス、塊とかいわれるのに対して、陶芸の空洞性。実体があいまいで、存在の希薄なものがヨーロッパ彫刻の前では弱い立場だったんだけど、ある見方でいうと、埴輪の目のような彫刻の空洞性には意味があって、目のくり抜きの部分からその奥にある空洞、膨大な空間、表現されていない空間が見えるということはすごいことだと。あの埴輪の目の空間と、ヨーロッパのロダンなどの石の彫刻、つまり重くて密度のある世界とどっちが大きいかというと、空洞のほうが大きいんじゃないか。それで、空洞の作品をつくり始めたんです。
考えが先か作品が先かといわれると作品が先なんですけど、作品が必ず考え方を導き出してくれるんですよ。アイデアでスタートするんじゃない。アイデアに基づいた試作がアイデアを強固にして、そのアイデアが作品の構造を言語化してくれて作品ができる感じかな。だから僕のは、作品と言葉がいつも一体になってないと成り立たない。

『月の骨』は、先にも書いたように小説のタイトルだ。河井寛次郎の言葉に打たれて旅に出たり、好きな小説に触発されたりと、松井さんは「言葉」に導かれてきたところがある。

——言葉ありきですね。感覚的なことって、例えば風が吹いただけで変わるわけでしょ。逃げていくものは言葉でないと捉まえられない。捉まえたら、言葉がまた感覚を呼んでくれるから、もういちど再現できるんですよ。感覚と言葉が自分のなかでとめどなく、繰り返しいろんなイメージを見せてくれる。それは楽しいね。言葉がすーっとつながったときとか気持ちいいでしょ。自分はこんなこと考えていたんだ、っていうその感じがいい。
一番あてにできないのは、僕の感覚と論理なんですよ。でも、信用できない感覚に、信用できない論理が重なると、あるとき真実が見えてきたりする。マイナス×マイナスがプラスになるみたいなもの。それはぜんぶ作品として出てきてるものやから。感覚は言葉でしか捉えられないし、言葉も感覚じゃないと捉えられない。

《月の骨》撮影:永田陽

《月の骨》撮影:永田陽

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《Tempo azzurro》撮影:豊浦英明(上のみ)

《Tempo azzurro》撮影:豊浦英明(上のみ)

そう聞くと、1995年以来の多岐にわたる活動にも、「感覚を言葉にする」ことが根本にあるように思える。たこつぼを残すこと、文献の残っていないパナリ焼を復興すること、そして既成のかたちや数字をつなげていくこと……。
何かに興味を惹かれたら、松井さんはたぶん直感的に動き、反応するひとだ。そのうえで言葉を探し、感覚と言葉の往還を繰り返すことで、思考を進めてきたのではないだろうか。
2004年から取り組んでいる「陶胎漆器」もまた、そのような作品だと思う。土器や陶器に漆を塗り重ねるものだが、縄文の土器はこの手法で焼かれていたという。

——漆を最初にやったのは、お猪口に塗ったときです。漆の艶がきれいだったから。初めは機能よりも釉薬に代わる触感、ぬくもりとして投入したんですよ。釉薬のさわったときの冷たさがちょっといやで、漆のほうはもっと温かいから。
陶胎で目指してるのは、視覚的なことよりも触覚的なところなんです。陶器でも、土器でも試しています。土器は見るからに陶器以上に触覚的だし、そこにつやつやの漆を塗ることによって、目で触覚を感じる。「触覚的な視覚」といったらおかしいけど、目で触ることによって、それがアフォーダンスを生んで思わずさわってしまう、というね。今までにない器だ思う。

さわったときの温かさもあり、目でもそれを感じる。つまり、機能的であり装飾的でもある作品だ。

——一般的に陶胎漆器は本焼したあとにいろんな色の漆を塗る装飾技法なんです。縄文のころの陶胎は、装飾じゃなくて機能。漏れないように漆を塗ってたわけです。
僕は装飾を目的とした仕事には興味はないんですが、機能が美を生む過程に興味があって、今やってる仕事は機能と装飾の両面が大事なテーマになってるから、液体を漏らさないという機能のために土器の上に漆を塗を塗り、それを用いる過程が装飾を生むということを実験しています。
例えば「根来(ねごろ))」や「堆朱(ついしゅ)」という、漆塗の技法がある。どちらも磨きだして模様を出します。何層にも色漆が塗ってあって、それを研ぎだしていくとさまざまな模様があらわれてくる。で、僕は、研ぎだす代わりに茶筅でかき回すことで、碗のなかに根来とか堆朱の模様をつくりだそうと考えた。お茶を点てれば点てるほど模様が変わっていくんです。でも職人さんに「何年かかるか」と言われました。
言葉ですよ。言葉で考えて美しいと思った。そのために内側に塗ろうと決めた。機能と所作が装飾を生むわけ。それなら僕も受け入れられると思って。

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陶胎漆器

陶胎漆器