3)「農」で大原を輝かせる
「京都・大原創生の会」宮﨑良三さん(1)
20年前、大原ふれあい朝市を立ち上げた宮﨑良三さんに話を聞く機会を得た。宮﨑さんは京都市大原で生まれ育ち、市内の会社でサラリーマンとして働いていた。定年退職後、大原の里づくりに、さまざまな貢献をしてきた人物である。
1999年当時の大原は、他の地域と同じように、少子高齢化で農業が衰退し、各家が持つ農地は荒れはじめていたという。
———このままだと、観光客に「景色のいいところではないね」と思われるんじゃないかと地域で問題になりました。農地が荒れると、いろいろな被害が出てくるので、私も危機感を持ちました。
1人ではいかんともしがたい状態でしたので、呼びかけをして仲間をつくって、農業を元気にするような活動をしたいと思ったんです。その頃の私はまだ会社に勤めていましたが、もう定年も近かったので、定年後のライフワークとして、農業起こしを始めてみたのでした。
同じように定年退職したひととか、ちょっと農業をやってみたいっていうようなひとたちばかりでしたけど、16名勧誘できたので、そのひとたちと「大原農業クラブ」という団体をつくったんです。
宮﨑さんが事業目的として設けたテーマは3つ。1つ目は野菜を販売できる場所をつくること。2つ目は、農地の道路や水路の整備。3つ目は、農地を有効利用することだった。
このなかで、真っ先に取り組んだのが、野菜を売るための大原ふれあい朝市である。最初はバス停「野村別れ」からすぐの製材所跡地で始めた(現在ここでは「大原わいわい朝市」が行われている)。まだ地産地消という言葉も生まれていない頃だったが、地元で収穫したものを地元で販売する「野暮ったい」やり方が好評で、メディアにも数多く取り上げられた。開始から3~5年でピークを迎え、トイレや駐車場が足りなくなるほどに、ひとが訪れるようになったという。
———その頃は1回開催すると平均140万円ぐらいの売り上げになっていましたね。鯖寿司やお弁当のような加工品をつくられたり、奥さんの売り方が上手やったりで、1店で15万円程の売り上げがあるんですよ。それが励みになって、競争になって、みんな頑張る。特に女のひとは、頑張っていました。
朝市が安定してくると、直売所「里の駅 大原」をつくり、朝市の場所を現在の場所に移転した。大原のさらなる農業振興のための会社「株式会社大原アグリビジネス21」も設立。行政の助成を受けながら、道路や水路を整備する土地改良事業や、田畑の区画整理事業を行った。また、将来に向けて農地を有効利用すべく、遊休農地や耕田など現地調査をし、データに基づき対策をとった。長期的な視点で、大原の景観を守り、農業を持続させていくための土台づくりだった。これらの事業はつい3年前ほどにやっと落ち着き、後継者に立場を譲って、宮﨑さんとしては、肩の荷がおりたという。
———はじめは反対するひともありました。田畑をきちんと整えることで景観が良くなるという想いから、土地改良事業をしたいと伝えても、それには25%程の自己負担金が必要なので、 「お金を出すのはかなわん」っていうような農家の考え方がありました。あるいは、隣村の八瀬のように、待っていれば市街化区域として土地の資産価値が高くなるのではないかと期待してる方もいた。そういうことでは将来大原は輝きませんよ、自然豊かな癒しの里づくりを目指しましょう、と、まずは納得してもらうことから始めました。今では「いいことをしてくれたなあ」って言ってくれてはると思いますけれどね。
大原には、古くから住み続けているひとがいるからこそ、保守的な一面がある。一筋縄にいかないというのは、想像に難くない。宮﨑さん世代の方々の努力によって、現在の大原のベースが築かれたのだ。