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アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#75
2019.08

まちを耕すアート

2 場の履歴を生かす 台湾・台南
1)学生運動からアートへ
写真専門ギャラリー「海馬迴 光畫館」
李旭彬さん1

背中を汗で濡らしながら、成功路という名の商店が立ち並ぶ大通りを台南駅にむかって歩いていくと、そのギャラリーはあった。入り口上側の看板には「海馬迴 光畫館」という文字と、タツノオトシゴのマーク。
光畫とは「光で描く絵」、つまり写真のこと。「海馬迴」は人間の脳のなかで記憶や空間学習能力をつかさどり、タツノオトシゴに形状の似た「海馬体」を指す。

外の明るさに慣れた眼をこらすと、暗がりのなかに階へ上がる階段がのびている。階段を一歩ずつ上るにつれ、タツノオトシゴにみちびかれて深海をいくような心地である。2階と3階がギャラリーおよびスタジオになっていて、講演から撮影や現像まで、レクチャーやワークショップが日々行われており、筆者が訪れた時もちょうど数人の生徒さんたちが作業をしていた。
そこで迎えてくれたのは、穏やかな笑顔をたたえたギャラリーオーナーの李旭彬(リー・シューピン)さん。前号で取り上げた非営利のアートギャラリー「絶対空間」の黄逸民さんから紹介してもらった、台南の土地にアートを育む土壌を耕している仲間のひとりだ。

李旭彬さん

李旭彬さん

「海馬迴 光畫館」は現代写真を扱う非営利のギャラリースペースだが、自身も写真家であり台南芸術大学で教鞭を取っている李さんは、1969年に台南で生まれた。
30歳になる前は、1996年に開業した台北の新交通システム「MRT」(マス・ラピッド・トランジット)地下鉄建設のため、プログラマーとして働いていた。転機となったのは、1990年3月に起こった学生運動「野百合革命」。運動に関わりながら、それを記録・観察することで労働や環境などの社会問題について深く考えるようになった。31歳のときにプログラマーをやめて渡米、Academy of Art Universityで写真を学んだ。

日本が台湾を領土としていた戦前の50年、そして国民党政権下となった戦後と長きにわたって台湾の人々が受けてきた抑圧からの解放が、爆発的なエネルギーとなって民主化を後押したのが1987年の戒厳令解除後、1990年代のことだった。巻き起こったのは、原住民族からフェミニズム・同性婚・環境・労働などあらゆるベクトルの社会問題にまつわる権利運動である。台湾では「台湾アイデンティティ」の定義として「喝台灣水吃台湾米(台湾の水を飲み、台湾で出来た米を食べて大きくなった)」という言い回しがよく使われるが、李さんも例外ではなく、自分が生まれ落ち・水を飲み・米を食べ・大きくなった土地のアイデンティティについて考え始める。
そうした思索に向き合うために「アート」と「写真」という手段を選んだ李さんは、サンフランシスコへ留学後2007年に故郷・台南へと戻ってくる。写真専門ギャラリーをオープンしたのは2009年、ちょうど40歳である。さらに自治体がアートへの支援に力を入れるようになった2011年、補助をうけて現在の場所で「海馬迴 光畫館」を開き今にいたる。