2)典型的な“林業の村”、西粟倉村
日本の近代林業は、山間部にある小さな山村が支えてきたといっても過言ではない。村の95%を占める森林と共に歩んできた西粟倉村も、日本の典型的な“林業の村”だ。
鎌倉時代、西粟倉村のある一帯は、原始林に覆われていた。山が切り拓かれ、人々が暮らす集落ができ始めたのは、室町・戦国時代だといわれる。また、良質の砂鉄が出たこと、製鉄に必要な炭の原料となる広葉樹がふんだんにあったことから、江戸時代の元禄期から明治時代中頃までは、タタラ製鉄(砂鉄と炭を使った製鉄方法)が盛んに行われた。村の奥地には、今も原生林や水路・家の石垣・鉄クズなどのタタラ遺構が残り、往時をしのばせる。

タタラ製鉄が行われていた永昌山鉄山に残された金屋児神社。製鉄の守護神を祀っている(写真提供:西粟倉村役場 )
現在、村の森林の約8割をスギとヒノキの人工林が占めるが、その植林の歴史は、江戸時代中期に始まった。当時、植林政策に熱心だった隣の鳥取藩主に命じられて始まったもので、明治10(1877)年ごろには、鳥取・智頭方面で木材が高値で取引されるようになり、村の植林熱に一気に火がついた。
明治22(1889)年、全国に町村制が施行されて正式に「西粟倉村」となり、初代村長が誕生。当時、タタラ製鉄により大量の広葉樹が伐採され、洪水のたびに村の稲畑に鉱毒が流出していたことから、村民がそれらの山林を買収。それを機に全山への植林が計画された(タタラ製鉄は明治26~27年頃に閉山している)。特に、明治38(1905)年より、製糸工場の経営者だった豊福泰造氏が手がけた300万本以上におよぶ大規模植林は、村有林の基盤づくりに大きく貢献。岡山県からも造林補助金が交付され、村はもちろん、県下においても植林政策一色となった。
大正7(1918)年には、払い下げ処分となっていた若杉国有林の獲得に村が名乗りをあげ、森林はいよいよ村の財産基盤の大黒柱となっていく。トチカンと呼ばれる鉄のくさびを丸太に打ち込みロープなどで引っ張る原始的な搬出方法「カンビキ」に代わり、木製の線路を敷いて大量の木材を下ろす「木馬曳(きんまひき)」が導入されたのもこのころだ。
戦時中は、軍需用材の伐採で村の山が荒廃。しかし戦後、村の将来の基盤をもう一度築こうと、代々の村長や村民は一途に植林に取り組んだ。

大正時代、村に導入された丸太搬出方法「木馬曳(きんまひき)」。「木馬道(きんまみち)」と呼ばれる木製の線路のようなものを山から引き、川には桟橋をかけて収穫した丸太を下ろした。写真は1940年代のものと思われる(写真提供:大茅自治会)