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アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#16
2014.04

岡山・西粟倉村 ものづくりから始まる、森林づくり、村づくり

前編 森林がつなぐ、これまでの50年、これからの50年
4)“新産業”ならぬ“心産業”へ

平成の大合併がようやく終わり、ふたを開けてみると、英田郡の6ヵ町村のうち、合併しなかったのは西粟倉村だけだった。

———その窮屈感というのは相当なものでしたね。「一番貧乏な西粟倉村がどうやって食べていくんじゃ」とよく言われたもんです。新聞にもずいぶん書かれましたよ。

そんな反応をよそに、道上さんはまず、スキー場や温泉宿泊施設などの観光施設の赤字を徹底的に削減することから着手する。しかし、赤字をとめるだけでは当然、村に利益をもたらすことはできない。持続可能な地域づくりの原動力として、森林を生かしたかった。
そんな折、総務省の「地域再生マネージャー事業」の一環で、資源リサイクルや自然産業のコンサルティングを手がける「アミタ株式会社」が村に派遣されてくる。最長3年間にわたり、ノウハウを持つ民間企業が課題を抱える市町村に常駐し、地域の再生事業に関わるというものだ。その時、村サイドの担当者だったのが、村役場の総務企画課長だった関正治さんだ。

村役場の元・総務企画課長(現・保健福祉課課長)の関正治さん

村役場の元・総務企画課長(現・保健福祉課課長)の関正治さん

———国、市町村、どこもかしこも“地域再生”が合い言葉のようになっていた時期でした。当初、アミタ株式会社には、観光施設の赤字を黒字化してもらうために来ていただいていたのですが、そこの社長が“一次産業を元気にすれば地域が再生する”という考えを持っておられる方で「観光施設の赤字削減ももちろん大事ですが、それだけで持続可能な地域づくりができるわけじゃない。この村は、林業の村。村が生きていくために、同時に林業再生にも取り組んでいきましょう」とおっしゃってくださったんです。その一声のもとにみんなで何度も議論を重ね、2005年、村の理念として“心(しん)産業の創出”というテーマを打ち出しました。

“新産業”ではなく“心産業”。ハコづくりや補助金だのみの新規事業ではなく、森林を生かし、心と心が通い合う新しい産業を生み出していくという決意を込めた造語だ。“心”という字には、同じ音である“森”の意味も込めた。
しかし、村役場や森林組合の職員らが集まり、毎月会合を開くも具体的に何をするかはなかなか決まらない。そんななか、一人の若者が一念発起する。

———当時、会合に参加していた森林組合の職員の國里哲也さんが辞表を出して、元同僚の木工職人や大阪の知り合いのデザイナーと一緒に「木の里工房 木薫(もっくん)」という会社を立ち上げたんです。村の木を使って、保育園・幼稚園向けの家具や遊具をつくる会社でした。

村の人々は「木は安い」といい、都会の人々は「木は高い」という。そんなねじれた構造を、将来、木を育てたり使ったりする子どもたちにその良さを伝えることで解消していこう。そんな思いで始められた会社だった。

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(上)「木の里工房 木薫」の國里哲也さん(下)

(上)「木の里工房 木薫」の國里哲也さん(下)園庭のない保育園のために製作された木薫の室内遊具。3階建てにすることで狭い空間を有効に生かした(写真提供:2点とも、國里さん)

しかしながら、最初は軌道にのらなかったこともあり、木薫で使用する木材はごくわずか。村に雇用や利益を生み出すには、もっと大きな仕組みが必要だった。

———そこで登場するのが、アミタの牧大介さんです。彼を中心とする若手メンバーたちから、「森林の間伐をもっと広範囲で進めませんか。それで出た間伐材でものづくりをして販売していきましょう」と村に提案があったんです。すこやかな森林に戻すために今できることは、間伐しかない。せっかく伐るなら、その間伐材を使って産業にしようというアイデアでした。

牧さんは、アミタ株式会社のシンクタンク「アミタ持続可能研究所」の所長として、西粟倉村の地域再生マネージャー事業に携わっていた一人だ。3年の任務が終われば村を去るはずだったが、國里さんに出会い、その後も村に大きく関わることになる。

村が自立の道を模索する頃、「アミタ持続可能研究所」所長として村にやってきた牧大介さん。現在は「株式会社 西粟倉・森の学校」(6章参照)の代表取締役を務める

村が自立の道を模索する頃、「アミタ持続可能研究所」所長として村にやってきた牧大介さん。現在は「株式会社 西粟倉・森の学校」(6章参照)の代表取締役を務める

———國里さんのせいで人生が変わってしまいました(笑)。そのまま森林組合で働いていれば生活も家庭も安定していただろうに、「心産業と言いながら、誰もそのコンセプトを具現化していないじゃないか。だったら俺がやってやる」と身を投げ出して頑張っている彼を見て、なんとかしたい、力になりたいと思いました。考えてみれば、もうかる仕事はほかにやりたがるひとがたくさんいますが、もうからない仕事は誰もやりたがらない。だったら自分もここで、一緒に頑張ってみようと。

そうして、木薫という存在を通して、村の目指すべき方向が徐々に見えてくる。例えば、丸太を原木市場に売ると野菜のような値段になってしまうが、木薫で遊具に加工すれば価値が30倍にも40倍にもなること。商品に加工するためには、間伐材の安定的確保と、村内に木材の乾燥や製品の組み立てを行う場が必要なこと。商品をつくるには、企画やデザインができる人材が必要なこと。そして何より、この村で新しい仕事が生み出せるということに希望がわいた。
國里さんの志に導かれるように、平成20(2008)年、道上さん、関さん、牧さんたちが中心となり、村は「50年前の村民たちが子孫のために植えてくれた木を、あきらめずにあと50年育て続け、100年続く森林にして再び子孫に残す」という「百年の森林構想」を掲げる。
森林の2文字は、あえて「もり」と読ませた。この村のひとたちは、原生林、人工林、そこに息づく生態系すべてをひっくるめて抽象的に「もり」と呼ぶからだ。
そして、構想を具現化する事業として、
1)個人所有の森林を村が預かり、間伐をはじめとする手入れを行う
2)間伐材を村内で製材・商品化し、消費者に直売することで村に雇用と利益を生む
3)原木を市場に出荷するのをやめる
この3つを、まずは実現していくことにした。森林の間伐には、細い木や弱い木などを間引く「劣性木間伐」と良い木を選んで伐る「択伐」の2つがあるが、樹齢100年の良い木を50年後に残すため、まずは劣性木間伐を徹底的に行うことに焦点を絞った。
「50年」、そして「100年」。構想の柱となるこれらの数字が持つ意味を、道上さんが教えてくれた。

———木はゆっくりゆっくり育つでしょう。でも、その間にわれわれの生活スタイルはずいぶんと変わります。ですから、半世紀ずつ、“たてり”(岡山県の方言で、ものごとの道理や規則のこと)を立てる。50年あれば、親が汗かいて森林を守っている姿を子どもたちも見て学んでくれるでしょう。そして100年たてば、森が森らしくなるはずです。

ちなみに今回、ぜひ國里さんにも会いたかったのだが、あまりにご多忙とのことで叶わなかった。今、東京で新築される6つの保育園の内装・家具を制作中だそうだ。