アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#16
2014.04

ものづくりから始まる、森林づくり、村づくり

前編 森林がつなぐ、これまでの50年、これからの50年 岡山・西粟倉村
5)「百年の森林構想」の始動

「百年の森林構想」を実現するにあたり、まず最初に取りかからなければならなかったのが、森林の集約化だ。何千という単位で細分化されていた個人の山主たちの山林を村が預かり、森林組合に管理・整備を依頼。木材が売れたら山主と村で折半するという、三者契約をとりつける必要があった。
村に約5,000ヘクタールある森林を少しでも多く集約化するため、道上さんらは12ある集落のすべてを回り、何度も説明会を開いた。村民からは、「父から相続した山林がどこにあるかわからない」「もう数年、山を見に行っていない」といった声から、「大変な思いで世話してきた山をなんで今さら村に預けないけんのじゃ」「最終的に村が山をのっとるんじゃないか」という声まで出た。道上さんは、当時を振り返って言う。

———山は手を入れれば入れるほど材積(木材の体積)が増える。5本の木から2本間伐しても、残りの3本が5本分の材積以上に太ってくれる。手入れに少しお金はかかるけど、山は減らない。減らないどころか付加価値が上がる。間伐や搬出で雇用も生まれる。こんないい資源はほかにはない。木には人一倍強い思い入れがある村だからこそ、もう一回、村じゅうで一緒に森林をやろうや、と。そういう話をして回りました。

なかには、牧さんら外部のひとが関わっていることを警戒する声も聞かれた。

———わたしもずいぶん迷ったんですよ。でも、われわれは木を育てることは知ってますけど、カーボンオフとか木質バイオマスとか言われたら、もうどうしていいかわからない。これから時代がますます変わって、森林利用にもまったく新しい感性が必要になってくると思います。牧さんたちが言うことは、古い山主さんたちがNOと言い続けてきたことばかりなんです。でも、彼らが「でも、おっちゃん、やっぱりこれ商品にしようよ」と踏み込んできてくれたら、もしかしたら心が動くかもしれない。われわれの忍耐と彼らに自由に暴れてもらうことのバランスは難しいところですが、反対派がいるということは非常に大切なこと。それほど森林を大事にしているということですし、牧さんたちも何かしらその声をくんで行動していくはずですから。

道上さんらは、村内の山主はもちろん、村外にいる不在村者の山主らにも手紙を送るなど、粘り強く交渉。現在では1,400ヘクタールの集約化に成功している。

森林の間伐作業風景(写真提供:美作東備森林組合西粟倉英北支所)

森林の間伐作業風景(写真提供:美作東備森林組合西粟倉英北支所)

丁寧に管理された樹齢100年級の村の森林(写真提供:株式会社 西粟倉・森の学校 )

丁寧に管理された樹齢100年級の村の森林(写真提供:株式会社 西粟倉・森の学校 )

次に重要だったのが、「人集め」だ。木を間伐するひと、搬出するひと、製材するひとはもちろん、焦点をあてていた都会に向けて商品を企画・デザイン・加工できる人材が不可欠だった。これまでの林業は、木を育て、丸太を原木市場に売るまでが仕事だったため、木でものづくりをして売るためのノウハウは全くなかったのだ。

折しも、平成19(2007)年に村で立ち上げた「雇用対策協議会」が稼働していた。村や森林組合、観光協会など6団体が共同で求人を行う、通称「村の人事部」と呼ばれる組織だ。その名のもと、東京や大阪、神戸などで「挑戦者募集説明会」を開いたり、インターネットで求人広告を出すなどして、村に必要な人材を継続的に募集していった。そうして集まった約60名は、家具職人におもちゃ作家、和紙職人に営業マンなど、ほとんどが20~30代の働き盛りの若者。のんびり田舎暮らししたいひとではなく、この村で起業できるひとを募集したからだ。しかし、Iターン者である彼らには、親類もいなければ、拠点となる家もない。彼らの住居を用意する必要があった。その仕事を引き受けたのが、関さんだ。

———大変でしたねえ。もう次に来るひとが決まっているのに、ちょっと待って、家が見つからない! って(笑)。財政的に村が新築の家を用意するなんてことは無理でしたから、村に50軒以上あった空き家の大家さんに一軒一軒交渉して、常時20軒くらい確保していたでしょうか。なかには、朽ちてしまって住めないような家もあったので、なんとか村の予算で台所やお手洗いなどの水回りだけ、村の大工さんに頼んで直してもらいました。

家賃は一律2万円。一軒家の借り賃としては破格に思えるが、関さんが当時、田舎暮らしを特集した雑誌を見てみると、田舎の家賃はどこもそれくらいが相場だったそうだ。
森林の集約化や人集めにめどがついてくると、今度は、お金が必要だった。間伐や搬出のための重機購入費や人件費だ。特に三者契約では、間伐にかかる費用はすべて村がもつことになっていたので、その捻出方法が「百年の森林構想」実現の決め手でもあった。そこで平成21(2009)年、「共有の森ファンド」という基金を立ち上げ、主に都心部で投資家の募集を開始する。投資額は1口5万円と小さく設定し、この村と森林の未来に期待を寄せてくれる“村の応援団”を一般からも広く募った。ファンドの発起人である牧さんは言う。

———村の将来を賭けた事業ですから、今思えば村の予算や国の補助金をどかんと投入することも決して無理なことではなかったと思うんです。ですが、この村や森林のことをさまざまな方に知ってもらって、その発展を楽しみにしてもらいつつ、お金を出してまで関わってくれる彼らの期待に応えなければと村もがんばる。その結果として対価を得る。そういう、補助金だけに頼らない、緊張感のある経済をこの村につくりたかったんです。

現在、計423名の投資家がファンドを支える。村に山を預けてくれた山主や投資してくれたファンドメンバーには、村の森林がどのように手入れされ、どのような商品に加工されて消費者に届いているのかを見学してもらうツアーを定期的に企画し、招待するようにしているそうだ。

「共有の森ファンド」で購入した重機には、ファンドに投資したひとたちからの直筆メッセージが書き込まれている(写真提供:株式会社 西粟倉・森の学校)

「共有の森ファンド」で購入した重機には、ファンドに投資したひとたちからの直筆メッセージが書き込まれている(写真提供:株式会社 西粟倉・森の学校)