7)目の前の「ここ」を見ながら、見えない「そこ」を発見する
2000年以降、美術館の「ホワイトキューブ」的な展示空間を離れ、都市や里山を舞台とした「街場系」のアートイベントが日本国内で、そしてアジア地域で、世界各地で急増している。今回、四国村の動きはまさに瀬戸内海を舞台とした「瀬戸内国際芸術祭」に呼応したものだったが、概してこうした「短期決戦」の「街場系アート」は周遊する観客をひきつけるために「声高」なものになりがちである。確かに、夏の屋外イベントは暑さに対抗する意味でも「濃い味」が求められるのかもしれない。その意味では圧倒的に「うす味」な、民家や民具に寄りそうような藤本による演出に、来館者への「発見」への誘いが込められていたとあらためて感じる。
藤本は次のようなムナーリのことばを教えてくれた。
「発明とはこれまで存在しない何かを考えつくことであり、発見とはこれまで存在していても認識されていなかった何かを見出すことである」(ブルーノ・ムナーリ『ファンタジア』)
「うつくしいかたち」展にはじまる今回の四国村への旅は、これまで認識していなかった日常を発見、むしろ再発見する扉となったといっていいだろう。古民家を目当てにここをたずねた観客は思いがけず現代美術や建築に出会い、藤本らをねらって足を踏み入れた者たちは「使う」という意識のもとにつくられた、作家性希薄な家やものに魅かれたはずだ。こうしたふたつの、異質な世界を行き来する「扉」、「回路」をひらきうる作家はそういるものではない。だが、藤本のような資質の作家が示す「まなざし」「身振り」は、ワークショップや鑑賞教育に暗中模索を重ねる「ミュージアム」のあり方に一石を投じるものかもしれない。もちろん、この企画を立案・実現した四国村のスタッフあってのことだが、こうした齢を重ねた文化施設を、施設の物理的なリニューアルだけでなく、ソフト面で時代にアップデイトしていくことはエキサイティングな体験だと思う。初回の試みでの藤本起用により、それなりに関心のある作家や美術関係者がこの場の魅力を発見したはずだ。予算面などの厳しさは察して余りあるが、一過性の企画にとどまらず、今後の継続・展開を期待したい。
次号では、四国村のある香川・高松の豊かな文化的土壌を訪ねた旅での「発見」の続きを報告することとしたい。
文:林洋子(はやし・ようこ)
京都造形芸術大学准教授。東京都現代美術館学芸員を経て現職。専門は美術史、美術評論。おもな著書に『藤田嗣治 作品をひらく』(名古屋大学出版会、2008)、『藤田嗣治 手しごとの家』(集英社新書、2009)、『藤田嗣治 本のしごと』(同、2011)、編著に『近現代の芸術史 造形篇I』『同II』(芸術学舎・幻冬舎、2013)などがある。近年の企画展に『藤田嗣治と愛書都市パリ』(渋谷区立松濤美術館ほか、2012)ほか。
写真:大西正一 Masakazu Onishi
1980年生まれ。京都市在住。 写真家 / グラフィック・デザイナー。2006年、アカンサスタイポグラフィスクール第一期生 修了。2010年、デザイナーの鈴木篤、木工・家具デザイナーの竹内秀典と共にデザイン・プロジェクト「rabbit hole」を立ち上げる。http://www.rabbithole-d.com/