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#81

本来性の罠
― 下村泰史

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(2014.09.21公開)

私が小学生だった頃、オカルトブームのようなものがあったのを覚えている。UFOとかネッシーとか心霊現象といったものが、○曜スペシャルなどと銘打たれた番組でよく取り上げられていた。少年漫画雑誌などにも心霊写真のグラビアなどが載っていて、みんなで覗き込んで「これ怖ええ」とか言っていたのを思いだす。思えば今のグラビアとは随分違うものであったのだった。
こうした記事や番組の決まり文句というのがあった。それは「この世界には現代の科学では説明できない出来事が・・・」というものであった。ここには科学に対するぼんやりした不信が感じられる。時代的には科学技術の進歩と経済発展が続いていた時期であり、科学については概ねポジティブな印象が持たれていたと思う。当時は学研の「○年の科学」というような雑誌も人気があって、今に比べると理科好きの子どもも多かったような気がする。一方で、公害問題が顕在化し、科学技術のもたらすものに不安が感じ始められてもいた。
世の中で「科学」という時には、大きくは二つの意味あいが混じりあっているように思う。一つは私たちの生活を豊かにしてくれる科学技術であり、応用科学、工学といったものである。これは新たな製品やサービスとして、あるいは新たな「汚染」として私たちの生活世界に介入してくるものである。もう一つは世界を理解し説明するための方法としての科学である。「現代の科学では説明できない云々」というときには、後者の世界認識の方法としての科学がまずイメージされているように思われる。
先のオカルト番組のコンセプトに戻ろう。それは「科学では説明できないものがある」といいながら、それが把握できずにいる(と番組はいう)不思議の実在を主張するものである。
こうした「科学」の盲点のようなものを指摘し、あるいは「科学」のやり方のようなものを批判して、「そうではないもの」を主張しようとするストーリーには、今もいろいろなところで出会う。代替医療や健康法の世界はこうした話法で溢れ返っているといってよい。いわく「現代医学では見過ごされてしまう云々」「現代文明によって失われてしまった人間本来の力」「本来の免疫力をよみがえらせるために」。こういった話の進め方、みなさんもどこかで聞いたことがあるのではないだろうか。あるいはそうしたものに親しんでいる方もいるかもしれない。なるほど体によさそうなものもあれば、ほとんどカルトなのではないかと思われるものもあるけれど。
近代以降の科学の方法は煎じ詰めれば、「客観主義による普遍への到達」ということができるだろう。厳密な実験の手続き、数値化、統計処理、これらはすべて客観化のためにある。そしてそれらは自然科学だけでなく社会科学にも共通の手続きである。この客観主義は公正な市民社会の約束事でもある。客観的に効果が説明可能なものが政策として選択されることになる。
美術の世界も似たような事情があるかもしれない。場所や風土といった個別の条件によらない普遍的な価値のある芸術作品が、近代以降是とされてきたのだろう。そしてそれらを同一条件で鑑賞するために、ホワイトキューブという空間的な制度がある。
「現代の科学では云々」という言い方をしてきたけれども、ここでこれを「近代的なもの」といいかえると、先に挙げたようなストーリー、つまり「近代批判」から「あるべき姿」へ、といった話形はオカルトや代替医療の枠を超えてもっと広く分布していることに思い当たる。「現代文明の中で人間は本来のあり方を忘れている」系、とでもいうような話形である。代替医療のときもそうだったが、「本来の」というのが強調されるものが多いのが興味深く思われる。現代の問題点をどう描くか、「本来のあり方」として何を挙げるかによって、無数のバリエーションが生まれる。一種の代数学的な公式のようである。代入によって生まれるものは何なのか。あるいはこの函数の中身はどのようなものであるのか。
さきほど代替医療や健康法について、検討というほどでもないけれどざっと触れた。ここでもう一度こうした話形を取っているものを挙げてみたい。
「西洋文明の流入や戦後の高度成長によって日本固有の多様で美しい自然環境の多くが失われてしまったが、日本人はかつて環境と共存する方法を知っていた(として縄文時代や江戸時代が理想的なものとして語られる)。今こそ本来あるべき姿を取り戻すべきである。」
あるいは「西洋文明の流入や戦後の高度成長によって日本固有の美しい文化の多くが失われてしまったが、西洋文明の行き詰まっている今こそ、本来あるべき良さを取り戻し世界をリードする存在となるべきである。」
挙げればきりがないような気もするが、環境論や文化論(この両者は密接に結びついてもいる)においてよく見受けられるように思う。
美術における「ホワイトキューブからサイト・スペシフィックなものへ、さらに地域系アートプロジェクトやコミュニティ・アートへ」という流れもここに位置づけられるかもしれない。どこにいっても普遍妥当的な美から、その場の固有的なものに呼応する美へ、さらに風土や人々の関わりといったさまざまな関係性としての美へ。
こうした言説を並べていくと、「日本固有の」「地域固有の」といった、その場における固有的なものを前景化しようとしていることに気づく。これこそが近代思想における客観主義では見出し得ないものだとでもいうようである。これには一定の理があるように思う。客観化は一般化を伴うものだからである。「客観的に見てもそこにしかない」種類の固有性は、希少性という属性に置換される。「どこにでもあるがそこにいる人にとってはかげかえのない」という種類の固有性は、客観的には記述しにくい。主観的なものだからである。そして客観化されてしまったものは、不特定多数の誰によっても同じようにしか経験され得ないものになるからである。
鳥越皓之は名著『琵琶湖報告書』で「第三者の立場」「客観的な立場」に立つ「科学的な知」と「生活者の立場」の「日常的な知」とを対置して見せたが、後者こそローカルな共同主観による世界像を形作るものだ。それは「どこにでもあるがそこにいる人にとってはかげかえのないもの」であり、コミュニティ・アートや、里山系あるいは河川系の環境保全運動が救い出そうとしてきたものであった。
先だって施行された滋賀県の流域治水条例も、同様の視点を持つものだ。この条例の概要や優れた点については、このコラムでは詳述しない。ひとつ重要なのは、この条例が、地域共同体が伝えてきたその地の水防の知恵(共同主観的な日常的な知)を、土木的客観知のもとに無視するのではなく、公共的な制度の次元に丁寧に移植しようとしたことだ。これを穏当かつ適切な形で行ったのは、かなりの離れ業だと思うのである。
近現代の社会のありようやものの見方に疑問を呈し、「本来な姿に戻せ」というのは、当然ながら反動的な考え方と結びつきやすい。「本来の姿」として「自然の摂理」、「弱肉強食の原理」や「日本の伝統」といったものが代入されうる。多くの場合この変数に代入されるのは、半ば幻想的な共同体の原理である。それらはしばしば客観的な公正性を旨とする市民社会との間で齟齬を生じる。最近目立つようになってきた保守系の政治的な言説は、いずれもこうした形をとっている。これらの多くは論じるに値しないが、その形式の「もっともらしさ」には注意する必要があると思う。
「近代批判から『あるべき姿』へ」の話形を取るものにはさまざまなものがあるということを述べてきた。その中にはどうしようもない排外的な差別主義の言説もあれば、きわめて穏当なものもある。政治的には保守的な言説がこの形を取りやすいが、反原発あるいはエコ系の言説も同様の構造を持つことがある。科学技術と近代的な〜本来の自然な暮らし云々というような。また先に述べたように、地域環境や地域コミュニティに注目するアートプロジェクトや市民活動もこうした構造をコンセプトに持つことが多いし、もっといえばフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のような哲学的な果実となることだってある。この函数が生み出すものはまさに玉石混淆なのである。要はその話形がもつ耳あたりのよい「もっともらしさ」を、一旦括弧に入れる必要があるということだ。
ではどこに気をつけたらいいのだろうか。私は代入項の取り扱いの手際であると思う。この公式にはふたつの変数がある。ひとつは近代批判の部分である。近代的な客観性を批判することも、環境破壊をとりあげることも、文化の退廃を訴えることもあるだろう。この第一変数についても考えればいろいろなことが出てくると思うが、ここでは割愛する。
もうひとつの変数は「あるべき姿」の部分である。ここには近代的なものと対置される形で、(グローバルなものに対して)地域的なもの、(普遍的なものに対して)固有的なもの、(客観的に捉えられるものに対して)共同主観的に捉えられるもの、(新奇なものに対して)伝統的なものなどが代入される。この際に「かつてあった理想的な本来の姿」がいきなり入ってくる場合には、注意が必要であると思う。そういう大風呂敷の主張にはローカルな共同主観、「日常的な知」への見識が欠落していることがほとんどだ。むしろローカルな多様性を排除しようとする傾向がある。
この話形を採用し、かつローカルな伝統に注目していても、妥当性が高く思われるものでは、この「べき」や「本来性」は強調されない。一方「かつてあった本来の姿」(例えば、「縄文」や「江戸」や「単一民族の日本」や「自然の摂理に従った高い免疫力」など)をいきなりいうようなものは、警戒しなくてはならない。こうしたものは、近代批判の形を借りつつ、伝統を騙った一般論で何かを見えなくしようとするものだからである。
この話形は、オカルトから環境論、文化論ひいては哲学に至るまで、幅広く分布している。そして時に有用なレンズにもなってくれるこの公式は、保守的な考えに簡単に結びつきがちでもある。自分自身がレポートの執筆などでこの話形を使っていることに気づいたら、一度立ち止まって自分を観察してみてほしい。
かつて赤瀬川原平は「現代の科学では説明できない」UFOと、「現代の科学では説明することしかできない」革命とを対置して、この話形自体を笑いをもって脱臼して見せた。私たちも、この紋切り型の外に出る必要があるのだと思う。