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#175

八朔を祝う
― 野村朋弘

八朔を祝う

(2016.08.07公開)

この原稿は、8月1日に書いている。東京では梅雨明けがなされ、猛暑が訪れた。夏本番といった様相で、外苑周辺も夏休みの親子連れを多くみるようになった。
8月はお盆休みがあったり、学校では夏休みに当る期間である。そのためか、長らく祝日が設定されていなかった。しかし、「山の日」が2014年に制定され、今年から11日が祝日となった。ちょうどお盆の期間と近く、長期休暇が取りやすくなったということだろうか。但し、通信教育部がある本学では、夏はスクーリング授業の真っ盛りであり、学生も教員も、お盆休みや山の日といった祝日にあまり恩惠を受けない。休みこそ学びを深める時期といえよう。

さて、改めていうが、8月は祝日が設定されていなかった月である。しかし、近世まで時代を遡ると祝日が設定されていた。8月1日の「八朔」である。今回は、この原稿を書いている日にちなんだ話をしてみたい。

旧暦の八月朔日に行なわれるので「八朔」と呼ばれたこの行事は、八朔節供とも呼ばれるものである。古くは「田の実」や「憑」といった字が当てられ、「たのも」「たのみ」の祝いと呼ばれていた。民間の農耕儀礼からスタートしたものだ。
旧暦の8月といえば、新暦の9月に相当する。暖かい地域では収穫のシーズンともなり、また、青々とした稲が次第に穂入りしていく時期にもあたる。新しい稲をお世話になった人や主家へ贈ったり、また、豊作を祈願しつつ、収穫でもお世話になる人(たのみにする)人に対して贈答する。こうした農耕的な行事が、頼みとする主人や知人・友人へ品を贈るものとして、次第に流布し、中世の鎌倉時代の頃には、公家社会の中でも取り入れられていく。更に、鎌倉幕府でも、3代までの将軍家であった源家が途絶えた後、摂家将軍、親王将軍と続き、公家社会の文化が次第に導入されていく。そのためか、鎌倉幕府内でもこの八朔の行事は行われていたようだ。

公家社会では、檀紙や杉原紙といった紙、また香や硯箱といったものが贈られている。紙はとても貴重なものであり、中世の贈答品には欠かせないものだ。翻って幕府では馬や太刀などが贈られていた。
室町時代に入ると、公式行事として大々的に行われるようになる。この贈答関係が、主人と家礼の主従関係を再確認したり、固めるものとして考えられたのだ。室町幕府では、八朔奉行(御憑奉行)がこのイベントのために設置されたりもしている。公家社会であれば天皇や上皇。幕府であれば将軍家へと、贈答をすることは、貴族や大名にとっても重要なことだったのである。
今回のイメージ写真は、三方に載せた刀である。まさに贈答用をイメージしたものだが、あくまでイメージだ。実は室町時代においては、現物ではなく「進物折紙」という目録が贈られ、現物を直接は持参しなかった。目録には「太刀一振、馬一疋」などと記されており、それを主君に奉ったのである。

こうして行事が広く行われていく中で、おりしも、徳川家康が天正十八年(1590)の8月1日に江戸城へと入った。江戸幕府においては八朔とは別に、8月1日は重要な記念日となったのである。
そのため、江戸時代になると武士の祝日として八朔は扱われるようになる。但し祝日といっても、将軍家も大名・旗本も休みというわけではない。大名や旗本たちは白帷子を着て、江戸城へ登城し将軍家へ祝辞を申し述べるのだ。
江戸の名主であり、考証家でもあった斎藤月岑が著わした『武江年表』には、天正十八年八月朔日の説明で「中古より八月一日を田の実と号して佳節とす、わけて今年は御打入、八月一日なる故、毎年八朔の御祝儀、五度の佳節と等しく、御嘉例となりしとぞ」と記されている。「五度の佳節」とは、五節供(人日・上巳・端午・七夕・重陽)であり、節供と同様に重要視されたことを示している。
この八朔は明治三年(1870)の祝日設定では五節供とともに祝日となるものの、同六年(1873)の改暦と五節供廃止などに伴う祝日の改変の中で、消えていった。こうして8月の祝日は消滅したのである。

しかし、もともとが民間の行事・儀礼だったためか、今日でも全国各地でさまざまな八朔の行事が行われている。有名なところでは、京都祇園の舞妓さんが8月1日に中元の挨拶廻りを行っているし、また、旧暦に合せて9月1日に八朔行事をおこなう神社などもある。祝日は消えても、行事そのものは遺されていく。伝統文化のありようの一つといえるだろう。