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#176

大文字の送り火
― 石神裕之

大文字の火床

(2016.08.14公開)

大文字を待ちつつ歩く加茂堤 虚子

8月16日、京都の夜空に点る火がある。東山如意ケ嶽の「大文字」の送り火。市内の各所、どこからでも眺望できるが、高浜虚子の句にあるように、丸太町大橋から御薗橋にいたる鴨川べりからは「大文字」が姿よく見える。

この大文字の送り火の始まった時期は、実はよくわかっていない。京の俳諧師、秋里籬島が著した『都名所図会』(安永9[1780]年刊行)では次のように書かれている。

毎年七月十六日の夕暮、大文字の送り火は銀閣寺の後山如意が嶽にあり。昔此麓に浄土寺といふ天台の伽藍あり。本尊阿弥陀は一とせ回禄の時、此峯に飛去り光明を放ち給ふ。これを慕ふて本尊を元の地へ安置し、夫より盂蘭盆会に光明のかたちを作り、火をともしける。其後弘法大師大文字にあらため給ふ。星霜累りて文字の跡も圧しなば、東山殿相国寺の横川和尚に命ぜられ、元のごとく作らしめ給ふ。

その昔、如意ヶ岳の麓にあった浄土寺に安置されていた阿弥陀如来が、寺の火災に遭った際、如意ヶ岳の峰に飛び去り、光明を放ったという。そして盂蘭盆会の時期になると、光明の形を模して火をともしていたが、弘法大師により「大文字」の文字として改められた。しかしその後、年月を経て荒廃し、東山殿(足利義政)が相国寺の横川に命じて再興させた、ということらしいのだが、室町時代の公家の日記などをみても、大文字の送り火の話はあらわれてこない。

おそらく、江戸初期には始められたものと考えられており、中川喜雲の著した『案内者』(寛文2[1662]刊行)が大文字送り火の初出とされている。

現在、標高465m付近の斜面に「大文字」の火床が作られている。全部で75基の火床があり、第―画目の長さは80m、第二画目の長さが160m、そして第三画目が120m ある。『案内者』の記述によれば、その筆致は寛永の三筆とも言われる、三藐院殿(近衛信尹[1565~1614])の手になるものという。

大文字の火床の構造は、当初、杭を打ち、杭に松明を結びつけて火を点していたとされるが、次第に現在の積木法に代わっていったようである。

写真下に見える火床は、大の字の要となる中心の部分で、他の火床に比べてひときわ大きく作られている。点火の際は、この要から灯される。

他の火床は山の斜面に若干の土盛をして、大谷石の基壇を設置し、その上に薪を、高さ約1.3mほど井桁に組んで積み上げ、その間に松葉を入れて燃え上がりをよくしている。

ちなみに大文字の送り火は、ただ下から眺めるだけではない。護摩木に名前や病名などを書き、火床の割木とともに焚くと、その病が治るとされてきた。また消炭を持ち帰り粉末として服すると、持病が治るともいわれ、銀閣寺門前の受付には多くの人々が訪れ、思い思いに護摩木を納める。

さて、午後7時。山上にある弘法大師堂で燈明が灯され、大文字寺(浄土院)住職などにより般若心経があげられる。その後その燈明を親火に移し、午後8時、合図により一斉に送り火が点火されるのである。

この大文字を筆頭に、松ケ崎西山(万灯籠山)と東山(大黒天山)の「妙法」、西賀茂船山の「船形」、大北山(大文字山)の「左大文字」、上嵯峨仙翁寺山(万灯籠山・曼荼羅山)の「鳥居形」の順に点灯していく。いわゆる五山の送り火と呼ばれる所以である。

こうした京都の山々があればこそ、送り火の美しさも引き立つわけであるが、その植生を見ると、現在は照葉樹林帯特有のシイやカシの繁茂する森となっている。

私たちは、それが東山の景観美であるかのように捉えているが、江戸時代以前には、全く違った景観であったことが発掘された遺跡などの花粉分析から明らかとなっている。

京都市内の遺跡や上賀茂にある深泥池の堆積物などから採集された花粉を分析すると、平安京の遷都以降、京都周辺ではマツ属の花粉が増えていき、近世には急激に増加することが判明している。

東山の山々は花崗岩や頁岩などが主体であり、養分も少なく脆弱な地質の痩せ山だった。そうしたやせた土地でも育つアカマツは、薪炭としても好適なものだったため、盛んに植林されたと考えられる。明治期の古写真には、そうしたアカマツの古木が稜線に並ぶ様子が写されており、それがかつての東山の景観美であったのだ。

しかし近代以降、「風致林」として禁伐となったこともあり、逆に天然林へと回帰し、次第にシイやカシなど照葉樹林の森へと遷移した。近年では、照葉樹林を伐採し、アカマツを植林する取り組みも行われている。

これからさき、また東山すべてをアカマツの森へと戻していくのか、このまま照葉樹林の森として維持していくのか。自然景観とは不変ではなく、人間の力によっていかようにも変えられていく。

クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss/1908~2009)は、『野生の思考』(大橋保夫訳、みすず書房、1976年)のなかで、オーストラリアの文化人類学者T・G・H=ストレーロウ(Theodor George Henry Strehlow/1908-78)の調査した、オーストラリア・アランダ族の景観に対する意識に関する一文を引用し、彼らの象徴体系について論じている。

そのなかでストレーロウは、彼らにとって景観とは先祖が作り出したものであり、先祖の足跡を読み取ることができる家系図のようなものなのだ、と評した。景観はただ美しいというだけでなく、そのなかに祖先が息づいている。そうした景観に内在する歴史が、神話的な世界の象徴性を担保する、とレヴィ=ストロースは考えた。私たちが、景観に郷愁の念を感じるのも、同じような理由からなのかもしれない。

それは東山の自然景観が人間との共生のなかで「生み出された」ものであるという、考古学的な知見を踏まえると、またよく理解できる。

京都を囲繞する山々。五山の送り火とともに、ぜひその意義深い文化遺産としての意味にも思いを寄せてみてはいかがだろうか。