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#222

オクシタン
― 上村博

clemence

(2017.07.02公開)

ハンドクリームの話ではない。それとも少し関係するが、むしろ以前本欄で書いた「方言としての芸術」についての続きである。

オクシタン occitan、これは「オック語」あるいは「オック語の話される地域(オクシタニー)のもの」のを指す。定冠詞付きならロクシタン。オック語の発音では「オッシタン」とするほうが近いかもしれない。フランス南部を中心に、モナコやイタリア西北端、スペインのカタルーニャで使われている。「オック」oc は「はい」という意味だが、それを「オイル」oil (のちに「ウイ」oui )と表現するフランス北部の「オイル語」と区別して、「オック語」と呼ばれた。いずれもラテン語の方言のようなものだが、オクシタンは中世には北フランスの言語に対抗する有力な言語であった。そもそも南仏は、かつて政治的にはカトリックの法王庁も一時あった重要な土地で、また学問・文化の面でも先進地域であった。モンペリエ大学は13世紀に創設され、その医学部はヨーロッパ最古である。またそこで薬草を研究するために作られた16世紀の付属植物園はフランスで最初のものである。ちなみに、もともと南仏ではハーブの栽培や利用が盛んであった。オクシタン地方の女性 l’Occitane という名を持つスキンケア用品の会社もその流れである。
ところが今や、南仏でも普通に標準的なフランス語が使われている。さらにはオクシタンは絶滅を危惧する言語としてユネスコのリストに入っている。それでもオクシタンは今でも数百万人以上に使われているし、オクシタンを守ろうとする運動も盛んである。

オクシタンは詩の言葉として名高い。中世ヨーロッパ最初の文学的な言語がオクシタンである。11世紀から13世紀にかけて、トルバドゥール(Troubadour, 吟遊詩人)たちはオクシタンで歌を作り(旋律は既存のものを借りることが多かったらしい)、それを各地の宮廷で披露した。その内容は恋愛が主で、満たされる希望のない愛やはかなさを切々と歌う。甘美な技巧は gai saber とか gaya scientia (楽しい学問)と呼ばれ、のちにニーチェが自著のタイトルに転用する。
やがて1323年にトゥールーズに「楽しい学問の協議会」Consistòri del Gai Saber が作られる。これはヨーロッパ最初の文芸サークルであり、オクシタンの詩を保護することを目的とする。そののち名前を変えながら、18世紀に一時中断するものの、今日に至るまで続き、ロンサールやヴォルテールなど、フランス語圏の著名人も名を連ねたことのある重要なアカデミーである。そして会が作られた翌年から毎年5月に詩作を奨励するための歌のコンクールがはじまり、優勝者には花が、後には金銀で作られた花が贈られた。

とはいえ、それは実のところ、オクシタンの衰勢の裏返しである。13世紀のアルビジョワ十字軍などでフランス南部の勢力がそがれ、トルバドゥールの全盛期も過ぎ去ったのち、この詩人たちの言語に存続の危機が感じられるようになった。だからこそ、わざわざ言語の保存運動が始まったのである。
14世紀末には、クレマンス・イゾール Clémence Isaure というコンクール支援者が現れた。彼女はトゥールーズの資産家であり、結婚を約束した恋人がイギリスとの百年戦争で亡くなったあと独身を通し、詩のコンクールを毎年開催するという条件でトゥールーズ市にすべての財産を遺贈した。しかし彼女の実在性は不確かであり、おそらくは「作られた伝統」のひとつであろう。16世紀初めに、予算不足でコンクールの開催が中断したことがある。その存続を求める協議会は、行政が担っていたコンクールの運営を引き取って新たな団体を設け、トゥールーズ市から恒常的な運営予算を得ることを目論んだ。そのため、クレマンス・イゾールという架空の遺産の寄贈者を作り上げたわけである。行政もクレマンスの遺言書という口実のもとで市の予算をある程度自由に使えたらしい。ちなみに「クレマンス」は「寛大さ」でもあり、14〜15世紀には聖母マリアの呼称として「クレマンス」を讃える詩があった。また14世紀末に「クレマンス」という婦人の碑銘の注文がされたことが市の会計文書に残されていた。そこから、存在したかもしれない寛大な支援者がクレマンスとなったのであろう。そこに「イゾール」という伝説的な(これまた存在が確認されない)トゥールーズ伯の姓を付け足したのは1549年に優勝したバラードである。さらに同じ頃に実在のトゥールーズの名家イザルギエの墓所で見つかった女性の彫像がクレマンスの像とみなされて、クレマンスの存在が市民に広く親しまれるものになっていった。
ところが、その当時はすでにオクシタンの衰勢は如何ともしがたく、オクシタンの詩がコンクールで優勝したのは1513年が最後になってしまう。さらに1539年に出されたフランソワ1世の勅令以降、フランス全土で公文書がフランス語で統一されていく。やがて1694年にはルイ14世の絶対王政のもとで、コンクールの主催団体は「花の競技のアカデミー」に改編される。そしてなんとコンクールの使用言語がフランス語に限定されてしまうのである。このアカデミーも18世紀末のフランス革命時に閉鎖されることになる。勿論、すぐにアカデミーはナポレオンの時代に復活するし、ロクシタンは話され続ける。とはいえ、ヨーロッパ随一の文学的言語だった中世から次第に次第にフランス標準語に圧倒され、やがては一方言になっていったのがオクシタンの歴史である。

しかしそれでもさすがにオクシタンであって、政治的には絶対的に不利な条件で、フランス語に対抗して700年近く運動してきた。20世紀にはオクシタンの詩人ミストラルがノーベル賞を受けたり、オクシタンの研究機関や教育機関ができたりとその復権も図られる。また行政的にも20世紀、21世紀とオクシタンの使用は公的に広く認められたものになる。自分たちの地域の文化を尊重し、維持しようとする運動は、本来はオクシタンに限らない話である。しかしようやく近年世界的に認められてきたその運動を、オクシタンは例外的に昔からずっと続けてきたのである。それだけ文化に誇りを持っていたのだろう。
芸術活動は人間の身体性と強く関わっている。そして身体はどこにでもあるものではなく、あるひとつの場所に生まれ、育ち、活動するものである。そしてその場所で他の複数の人間と言葉を、また言葉の作る経験を共有して文化を生み出す。勿論、生まれ故郷以外の言葉、借り物の言葉でも文化は生み出せるが、それはそれでいろんな事情からその言語を自分のものとしているからだ。別の言語(たとえば標準フランス語)でもオクシタンの地域の人は詩を書けようが、オクシタンでないと語れない事実、歌えない感情もあるだろう。
情報化社会のなかで、地域言語は新たな局面を迎えている。ネットの利用が拡がり、さらなる標準語化が進む危険がある。しかしまた、ネットは言語コミュニティの形成の可能性をもたらすものでもあるのではないか。実際、モンペリエ大学はオクシタンの通信教育も行っている。各地の地域言語が日増しに失われつつある情勢のなかで、オクシタンの続けてきた不屈の戦いには、学ぶべきことが多くある。

*写真はレオ・ラポルト=ブレルシ《クレマンス・イゾールの泉》1913年(部分)。