アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

最新記事 編集部から新しい情報をご紹介。

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

TOP >>  空を描く
このページをシェア Twitter facebook
#195

除夜の鐘
― 野村朋弘

除夜の鐘

(2016.12.25公開)

2016年の師走。既に年の瀬である。
出来れば閏月でもう一ヶ月欲しいと思う今日この頃だが、皆さんは如何だろうか。
残念ながら閏月はないものの、年が明けた2017年の1月1日に閏秒が追加される予定という。残り少なくなった2016年の日々を有意義に過ごしたいと思う。

年の瀬の最後。大晦日に行われる年中行事といえば、何を想起されるだろう。
「年越し蕎麦」を手繰るか、若しくは「除夜の鐘」だろう。今回の写真は神奈川県小田原市の鐘楼であり、大晦日には撞く人々に賑わうという。
除夜の鐘とは、除夜の12時をはさんで寺々の梵鐘を撞くことである。その数は108回とされ、煩悩を除き新年を迎えるためといわれている。
さて、除夜の鐘について、変わったニュースが世間を賑わせたことをご存じだろうか。曰く、「“仏教の教え“で中止を決断? 「除夜の鐘」にうるさいとクレーム」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161208-00010000-abemav-soci)などである。
深夜に鐘を撞くことがうるさいと苦情が出て、自粛する寺院があるという。

NHKの紅白歌合戦のあと、「ゆく年、くる年」で除夜の鐘を撞く様子をリレー中継で放送するのは、大晦日の風物詩といってよいだろう。「ゆく年、くる年」という番組タイトルも元は「除夜の鐘」であり、1927年からラジオ放送で行われている長寿番組である。
こうした日本の伝統的な年中行事を自粛するとは風情のないことだと、批判的に捉える人も多いのではないだろうか。季節の音色すら理解出来ない野暮といえよう。

だが歴史を学ぶ者として、野暮は承知の上で疑問がわき起こった。そもそも「除夜の鐘」とはどれくらい時代が遡れるのだろうか、と。
除夜の鐘について、例えば『仏教文化事典』(佼成出版、1989年)などには「起源は中国の宋代。わが国では鎌倉時代以降禅寺で朝暮れの二回ついていたが、室町から除夜のみになり、いつしか除夜の鐘を合図に社寺へ初詣をするようになった。(「年越の項目)」とある。
それでは寺院も多く史料も記されることが多い京都において、鎌倉時代や室町時代に「除夜の鐘」に関する史料はあるかというと、寡聞にして見たことがない。室町時代の『看聞日記』では「除夜」の記述はあるものの「鐘」の記述は皆無である。

また時代は下り、江戸時代の時刻とは、今日的な1日を24時間として等分する定時法ではなく、日の出から日の入りを6等分する不定時法である。日の出の六つから、五つ、四つ、九つで昼となり、八つ、七つ、六つで日の入りとなる。日の出、日の入りとは季節によって変化する。不定時法に依れば、夜明けの「明け六つ」から、日没の「暮れ六つ」は一年の中で長短が生ずるのであった。
更に言えば江戸時代までの前近代の日本人は、日の出で一日の始まり、日の入りで一日の終わりと考えていた。日の出ている時間は人の一日であり、日の隠れた宵から暁までは神仏の一日と認識していた。そのため祭礼の多くは「宵暁」に行われる。

但し、定時法がなかった訳ではない。古代の『延喜式』から定時法は導入されているものの、日本人の時間感覚としては普及していなかった。
江戸時代の暦を見てみると、世間では夜明けを一日のはじめとしているが、本来は「子」の正刻が正しいと天文方の役人が記している(「正子」。お昼の「正午」と対になる)。しかし、この理解は広がることはなかったようである。
つまりは深夜の12時に日付が変更となる感覚は、近代まで待たなければならない。
暮れ六つから明け六つまでは、神仏の時間である。夜も更けた「正子」に果たして除夜の鐘を打つだろうか。

そこで、先人が研究をされていないだろうかと調べたみたところ、西山松之助編『江戸町人の研究』6(吉川弘文館、2006年)に収められた浦井祥子「江戸の除夜の鐘について」という専論に出会い、学ぶことが出来た。浦井氏は史料を博捜して分析しており、次のような結論に達している。それは江戸時代の江戸において除夜の鐘について決まりがあった史料は見つからず、かつ、江戸において除夜の鐘を撞いたという事実は確認出来ないというものだ。
唯一、江戸時代の鐘に関して信憑性が高い史料として高田与清の『松屋筆記』をあげている。

除夜ノ鐘ハ、元旦ノ鐘、元旦ノ寅ノ一点に撞キ始メ、百八声ツク、終ハレバ、昇堂ノ太鼓鳴リテ、読経始マル、送歳ナラズ、迎歳ナリ、

寅の一点とは、現在の午前四時頃。日の出に合わせて、歳を迎えるためとある。この事例が江戸で行われていたかは確定出来ないものの、「ゆく年」を送るではなく「くる年」を迎える行事があり得たことを示している。
では大晦日の夜に除夜の鐘が撞かれたことはなかったのか。歴史学において「ない」ことを実証することは難しい。そのため推定となるが、大晦日の暮れ六つの「時の鐘」が、除夜の鐘として認識されていた可能性もありえるだろう。今後の研究が待たれる。

改めて結論を考えてみよう。「深夜12時」に新年を迎え、それにあわせて除夜の鐘を鳴らす行為は、とても近代的な感覚なのではないか。『仏教文化事典』にあった「年越」の項目には、除夜の鐘にあわせて初詣を行ったとある。しかしこの初詣という、新年を迎えて社寺を参詣するライフスタイルもまた、明治時代以降に普及する「新しい伝統文化」である。江戸時代までは「歳徳神」を自宅に迎えて元旦をすごすのが一般的であった。こう考えていくと、伝統的な年中行事と考えられてきた「除夜の鐘」も明治時代以降に「創られた伝統」の可能性が高い。

価値観が多様化している現代において、寺院の周辺に住むのは檀家だけない。寺院と住民との関係性が希薄になったからこそ、今回とりあげたような事例も起きるのであろう。伝統とは時代を経て変容していくものである。歴史を見つめ直し、何が地域コミュニティや住民にとって最善かを考える時代になったとえるだろう。