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アネモメトリ -風の手帖-

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#228

デザインと即興
― 下村泰史

(2017.08.13公開)

わが芸術教養学科は、人間が企図したものすべてを研究の対象としている。いわゆる「芸術」のかたちをとっていないものも取り扱う。それは物的なかたちをとるにせよ、出来事のプログラムというかたちをとるにせよ、「デザイン」なのだ、という考えに立つのである。それは手作りの日用品にも、いまこの文章を書いているコンピュータなどの大量生産品にも、これが掲載される「アネモメトリ」のようなソフトウェアにもある。そうした素晴らしい企図は、さまざまな民芸品や各国の民族資料、歴史的な遺産の中にも見出される。
ものごとを構想するのは楽しい。計画はある意味絵空事だけれど、デザインになると違う。具体的なプロセスになる。素材との対話。知覚に訴えるかたち。新しい視点の発見。いろいろなところに喜びがあって、それがものやできごとに織り込まれシェアされていく。驚きにみちたデザインから、新たなものの見方を知ったりする。こうしたデザインの過程は、生活を支える実用の世界だけではなく、芸術作品の制作にももちろんある。絵画にせよ、映像作品にせよ、その空間的・時間的な枠をどのように使うのか、どんな要素をそこに放り込んでいくのか、これはデザインなのである。デザインと芸術を対立的に捉えたりすることもあるが、こういうところでは相互乗り入れしているものと見ることもできる。

とはいうものの、このデザインの過程だけ見ているととりこぼしてしまうものもある。それは環境の中での何かの一瞬一瞬の顕れであり、それとの戯れのようなものとしての行為(表現)である。
先日、ある山奥の村に、夏祭りで使う松明づくりのお手伝いにいった。周辺地域の松明の伝統的なデザインの影響を受けながら、毎年毎年洗練を加えられていくこの松明のデザインも、それ自体芸術教養的なテーマになるものだが、今回はその話はしない。考えたのはその帰りの山道のことである。
くらい茂みの中で見え隠れするガードレールとセンターラインを視野の両端で知覚しながらラインを選び、タイヤから伝わる路面の状況に応じてブレーキを踏み、次のコーナーの大きさを予期しながらブレーキを踏み、横Gを感じながらギヤを落とし、そしてクリッピングポイントを超えた時点でスロットルを踏み込んでいく。排気音が高く伸びていくのを聴く。こういった瞬間瞬間の一連の対話的な動作が、リズムを形成しながら連なっていく。これは音楽なのではないかと思った¹。比喩ではなく、実際にこれは音楽なのではないか。一人で没入的に味わうこともできるが、数人で共有することも(酔う可能性もあるけれど)できるだろう。
この山道は土木的に厳密に作られたものであり、この車も高度なデザインがなされたものである。しかし、それだけで全てが決定されているわけではない。この運転の経験はこのドライブの過程固有のものであり、それはその絶えざる知覚と判断の連続によって奏でられるものだ。そしてその一連のシーケンスは、定められた道筋の上での、密度の高い即興的な行為によって支えられているのだ。音楽もそういった瞬間の連続でできている。フリーインプロビゼイションやジャズといった、即興を中心としたものはもちろんだが、きちんと譜面が書かれたものだって、演奏者によって違った顕れ方をするのは、そこに即興の瞬間が充満しているからだ²。音楽家の片岡祐介氏は「クラシック音楽の演奏は、音符の決まったアドリブです ³」といったが、まさにそういうことなのだと思う。
この対話的な瞬間の継起とそのリズミカルな経験というものは、デザインという「事前の」企図とはまた別の、重要な創造の要素なのだと思う。音楽やダンスや格闘や運転といった時間をそのまま経験するものだけでなく、例えば完成物を事後的に鑑賞される絵画のような形式においても、こうした没入的でミクロな対話が続く時間はあるだろう。

さて、私はこの「空を描く」のコラムで、しつこく音楽のことを書き続けてきた。残念ながらあまり「いいね」は伸びない。それには、私の音楽理解の偏りや筆力の不足があるのはもちろんなのだが、社会のさまざまな部分にデザインを見出す芸術教養的なアプローチと、ちょっと視点が違うからなのかもしれないとも思う。おそらく時間軸上で展開される微細な即興的なプロセス、つまり音楽的なプロセスは、デザインとほ異なるもう一つの重要な創造の契機である。わたしたちは世の中のいろいろなところにデザインを見出す視点を得たが、それに学んで、そういう目つきで世の中に即興を見出していくべきなのかもしれない。そして世の中にデザイン的な思考をひろめていくのと同じように、即興的なもの音楽的なものをひろめていくべきなのかもしれない。それは今おそらく圧倒的に不足しているものなのだ。
デザイン思考は私たちを自由にするが、即興もまた、別のかたちで私たちを自由にするものなのだから。

こうした音の生きている瞬間を味わう講座が、藝術学舎で開講されます。
「法然院サウンドスケープ」(10/12〜13)では、秋の法然院の清浄な空気のなかで、そのサウンドスケープに耳を澄まし、音を生み出すことと聴くことについて追求します。
詳しくは
http://bit.ly/2wfGxjf
をご覧ください。
皆様のご参加をお待ちしています。

1)おそらくかつてログズギャラリーが「ガソリン・ミュージック&クルージング」がやろうとしたことは、この経験の「作品化」なのだろう。
2)現在の商業音楽の主流をなし、またアマチュアの間でも普及しているコンピュータとDAWソフトウェアによる音楽制作(DTM:デスクトップ・ミュージック)の方法は、そうした瞬間的な継起を排除するものである。それは事前的なデザインにより音を完全にコントロール方向への可能性を開くものでもある。
3)ツイッターにおける氏の2017年7月22日の書き込みによる。