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アネモメトリ -風の手帖-

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#82

文化遺産と空き時間
― 上村博

sora_29

(2014.09.28公開)

パイロットたちのストライキ。航空会社との団交決裂、一直線にストに突入。そのあおりで、丸一日間、ローマの休日が手に入った。ところが一日ならまだよかったのだが、いつまでたってもストが続く。終息の気配がない。これは参った!焦る焦る。仕事の先送り、宿の手配、飛行機の手配、予定の組み換え、言いわけ、頼みごと。ああ、どうしよう。本当に。騒然、憤然、呆然、悄然。困ってしまった、ワンワンワワン!

しかし、落ち着かないのはしばらくのこと、うろたえうろうろ歩いていると、昼間からビールを飲んでだべっている年金生活者や旅行者たちの落ち着きぶりが目にとまる。まるで何百年も前からそこでぐうたらに時間を過ごしているようだ。さらに彼らの背後には、古代の遺跡と猫たちがおそらく何千年も前からぐうたらに居直っている。
だんだんとあきらめと共に開き直ってきた。よく見ると子どもたちも壮年も、誰もそんなに慌てていない。そしてつい最近、文化財科学を専門にする日本人の同僚と会ってきた。彼はローマ近郊で長年発掘に携わってきたが、常日頃から泰然自若として細かなことに拘りがない。日本ではまさにイタリア人と呼ばれて迷惑がられることもある。しかし彼や大聖堂や廃墟や猫を見ているうちに、文化遺産と普段つきあっている人間は、時間の感覚が随分違ってくるのではないかという気がしてきた。

これは、長い歴史の時間を意識すると気が長くなる、というようなことだけではない。また、壮大な廃墟が人間の卑小さを感じさせる、というようなことだけでもない。そうした感情的なこととも関係はするが、自分も含め、人間の過ごす時間に対する距離感が得られるのではないだろうか。それは性格が几帳面かいいかげんかは関係なく、むしろ認識の問題である。自分の人生が短いということと同時に、先立った人々や後から来る人々のそれぞれの生が営々と続いているという事実がひしひしと感得されるのである。文化遺産は受け継がれた時間がモノとして現前している。それに日々接していると、自分の目の前の時間の短さに対する諦観が生まれてくる。それは一抹の寂しさとともに、多くの人々の営みに連なるという安心感でもある。ラスキンは文化財が世代間継承される意味を強調した。建築や街並みは、祖先から伝えられたからというだけでなく、子孫にも残さなくてはならないから重要なのだ、と。自分の役割は終わっても歴史は続く。文化遺産は廃墟でも墓標でもない。人生のはかなさでもなく、文明の没落でもなく、自他の限界を自覚しつつ連なりに生きることを教えてくれる。常に先に先にと急いでしまうのは、あきらめのない個人や前のめりの組織の時間だけで生きているからだ。

ところが、そうした時間の認識は、自分の限界を、組織の限界を突きつけてしまう。それに対して「否!」と言う気持ちは当然生まれるだろう。サモトラケのニケよりも自動車が美しい、また図書館を焼き尽くせとまで言う未来派の運動が、まさに文化遺産の宝庫であるイタリアで生まれたことは忘れてはならない。それは歴史意識を持った近代のもうひとつの面である。そうした未来志向と過去への参照とはヤヌスのふたつの顔である。未来派と多分に相性の良かったイタリアのファシズムは、イタリアの機械化、近代化とともに、古代ローマへのメガロマニアックな懐古趣味を隠さなかった。しかし、問題はヤヌスの見た過去が実の過去ではないことである。自己肯定の欲求が作る幻想といってもよい。それは歴史主義を生み出した近代のもうひとつの産物である。未来派もファシストも、歴史主義と同根ながら、自他の限界のない集合的興奮のなかに、前のめりに生きようとする。
勿論、過去は否定しきれるものではない。また未来志向とは過去を無かったことにすることでもない。自己の限界もあきらめも、過去の誤謬も反省も、それはそれとして認識しつつ、今の時間に付き合って行かなくてはならないだろう。