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アネモメトリ -風の手帖-

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#347

誤字
― 野村朋弘

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いつの世にも誤字は絶えない。

今年も幾つかの論文を書き、次年度に公開される文章などを書いてきた。「あぁなんたる駄文」と忸怩たる思いになることはよくあることだが、今回はそうしたぼやき以前の話となる誤字・脱字について語りたい。

文章を書く際に注意する基本の一つが「誤字」「脱字」をしない、ということだろう。この他「衍字」もあるだろうか。それぞれ『日本国語大辞典』で意味を確認すると次のようになる。

 

誤字…「あやまった形、用法の文字。まちがって書かれた字。」

脱字…「あるべき文字が抜けていること。また、その文字。書き落としたり、印刷で抜け落ちたりした文字。抜け字。」

衍字…「誤って語句の中に入った不要な文字。衍。」

 

また「誤字」に類似したものとして「誤植」がある。また同様に『日本国語大辞典』で確認すると「印刷物の中の文字や符号などの誤り。活版印刷で、植字の誤りで起こるところからいう。ミスプリント。」とある。

誤字や脱字、衍字が印刷されたものを誤植というべきか。

ただ、研究者自身が執筆した論文については、「誤植」ということはあまりないように思う。執筆者自身がいう場合は「誤字・脱字」といい、編集者がいう場合は「誤植」という場合が多いのではないだろうか。

 

論文や雑誌記事、一般書といった何かの文章を執筆するときには次のような流れで公開される。まず原稿を書き上げ編集者へ渡す。編集者や印刷所が組版・印刷を行い、ゲラを著者へ戻る。校正をするためである。これが初校である。著者はゲラに赤字で修正箇所を入れて編集者へ戻す。

一般的な雑誌記事であれば、この一度の校正で「校了」となって、刊行されることが多い。

論文や書籍であれば、こうしたやりとりが二度、三度、四度と終わるまで行われる。

大手の出版社の一般書であれば、著者にゲラが届く前、校閲が入りチェックをしてくれる。

多ければ、初校・再校・再々校・四校、念校、念々校と続き、ようやく「校了」となって著者の手を離れて刊行となる。但し、これだけ校正をするということは、それだけ問題があったということであり、誉められた話ではない。

 

さぁようやく本が出た。と喜んで適当なページをサッと開いたとき、最初に目に入るのが誤字だった、という話は、よく聞く話である。その時はそっと本を閉じて、目を瞑る。黙して語らず、である。再版された時には修正しようと、手元の本に赤をいれておくことが多い。

冒頭でも書いた通り「いつの世にも誤字は絶えない」のである。

 

しかし自分のことは棚に上げて、学生に対しては「誤字・脱字をしないように」と教師然とした発言をしなければならない。私が担当するレポートでいえば、多いのは「民俗学」を「民族学」、「鶴岡八幡宮」を「鶴ヶ丘八幡宮」、「史料講読」を「史料購読」などだろうか。挙げるときりがない。一般的なIME(Input Method Editor)の第一変換候補がそれらだからだろう。特に歴史的な事項については、変換候補がすぐに出てこない。

それをしたり顔をしながら講評で指摘する。内心は「そんな人のことをいえた義理ではないんだけど」と思いつつ。

 

私がよく購読している『本の雑誌』(本の雑誌社)の2021年7月号(No457)には「笑って許して誤植ザ・ワールド」という特集が組まれて、様々な誤植のエピソードが紹介されていた。第三者からすれば笑える話だが、出版する側からすれば笑えない。レポートであっても同じだろう。折しもこのコラムが公開される時期は、「採点の祭典」が行われている。今回も自分のことは棚に上げて、講評文で「誤字・脱字はー」と語ることとしよう。