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アネモメトリ -風の手帖-

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#218

貧しさとしてのロックンロール 貧しさとしての谷川俊太郎
― 下村泰史

(2017.06.04公開)

北川透「谷川俊太郎の世界」(2005,思潮社)を読みながら、そこで論じられている谷川俊太郎の「異様な貧しさ」について考えていた時、似たような貧しさをもつものとして、ロックンロールのことに思い至った。

ロックンロールは貧しい音楽である。というと怒る人もいるかもしれない。黒人音楽の一連の流れの中で捉えられる、プリンスやローリング・ストーンズのロックンロールは、音楽の豊かさに溢れているではないか、とか。
ロックンロールにおけるニューヨーク・スクールの一大巨頭であったブルース・スプリングスティーン率いるイー・ストリート・バンドの名サキソホン奏者、クラレンス・クレモンズ氏は、かつてロッキング・オン詩に掲載されたインタビューの中でこんなことを言っていた。「ロックンロールとリズム&ブルースとは本来異なるものではない。この区分はレコード会社と後世の歴史家によって捏造されたものである」と。
それは判る。しかしそれでもなお、ロックンロールとリズム・アンド・ブルースは異なるものだという確信が私にはある。切断面がどこかにある。
iPhoneなどでシャッフル再生させていて、カーティス・メイフィールドの直後にビートルズがかかったとする。その落差には、だれも愕然とするはずだ。誰もが現代ロック音楽の豊かさそのものだと思おうとしているビートルズの音楽が、実はいかに伸びを欠いた、身体の固いものであるか、密実さを欠いた、空虚なものであるかが、その瞬間に露見する。しかしこのことは ビートルズの名誉を傷つけるものでは全くない。このスカスカさこそが、「何かを明らかにする」ものであることを私たちはどこかで知っているし、それが例えばセックス・ピストルズや、ストロークスの純粋ロックンロールに繋がっていく、ロックンロールの本質だということにも、直観的に気づいている。

リズムの伸びやかさ、バネといった生き生きとした融通無礙さを失ったら、音楽はファンクでもリズム・アンド・ブルースでもなくなってしまうだろう。しかし、こうしたものが失われるに従って、逆にロックンロールはエッジを立てて訴求してくる。またこの手のバイタリティに寄りかかっている音楽はロックンロールを自称していたとしても、退屈で守旧的なものに留まる。それは豊かな20世紀ポピュラー音楽の地層に抱かれた、退嬰的な歓びに過ぎない。しかし、そこから離れようとするとき、歴史と共同体の豊かさから分かれて、そのぎすぎすした姿をさらしはじめる時、ロックンロールの貧しい尊さが顕われるように思う。生の躍動から一度離れること、一旦音楽の死に触れることが、ロックンロールの要件なのだ。優れたロックンロールが常に痛々しいのは、必然なのである。

ロックンロールはつめたい容器である。そして優れたロックンロール音楽家は、その0度を知っている。その瀕死の貧しさが、そこに満たされる生き生きとしたものを一層賦活するのだ。一度死んだロックンロールに黒人音楽が再度結合される時、ストーンズの熱狂が生まれる。ジョン・スペンサーが発明した新しいブルース・ロックも、こうした手続きの上にある。共同体の伝統のなかに埋もれているものが、ロックンロールの貧しさによって改めて見いだされ、大衆に気前よく振る舞われる。これこそ現代的なポップの機能であり、リズム・アンド・ブルースの伝統の内部からは生まれ得ないものなのだ。

「語るべき内実」を持たないが故に、その形式が露出せざるを得ない。同時に、その形式がさまざまなもののユニークさ、豊かさを顕在化させる。白人が発明したロックンロールとはそういうものだったと思う。

何でこんなことを考えたかと言えば、谷川詩の貧しさというのも、そういう構造をもつもののように思われたからなのだ。谷川の詩は一見したところひとくくりにはできない多様さをもつ。しかし、どれもある一定のつめたさを持っている。言葉少なな「タラマイカ偽書残闕」にしても、言葉が横溢している「(何処)」にしても、初期の「二十億光年の孤独」にしても同様のつめたさがある。
谷川は、「語るべきものを持たない」人であるのに違いない。個人の経験だとか、思想とか、根拠とか、感受性とか、暴力とか、反秩序だとかといったことについて、呑みながら熱っぽく語り続けるような、そういうハッピーさとは全く関係がないように見える。「語るべきものを持たない」人が、それでもなお何かを言おうとするとき、多分その人の生の「形式」がそのまま露呈せざるを得ないのだ。谷川の詩には、そういう谷川の認識の構造、生の構造がそのまま刻印されている。表層的な多様性の下にあるのは、喩のひだひだや装われた豊かさを一切失った、「一つの眼」としての形式である。ここに、喩を反響させあうことで「何かを語ろう」としてきた現代詩との大きな離隔が生まれている。これはテーマの問題というよりは、むしろ主体の構造の問題というべきものだ。またここに、喩を反響させあわせないことによる一義性があり、それは谷川詩のポピュラリティとも結びついているのだ。

谷川は無限遠に設置された単眼なのだ。ここでは二眼による測距は意味をなさない。この視野のなかでは、性も事物も言語も同じ地平にあるものとして掴み直される。その視線のありようが、驚きとともにわれわれをうつ。
多分誰もが言っていることだと思うが、谷川の眼は二十億光年先の死の暗がりに据え付けられているのだ。そしてそれはロックンロールが常に瀕死であることと、現代のなかで重なりあっているように、私には見えるのである。