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#67

デッサン讃
― 上村博

sora_14

(2014.06.15公開)

職場の同僚はみんな絵がうまい。絵というよりは図かもしれない。そして確かにそれは絵描きに限らない。画家のみならず、デザイナーも研究者も、ちょっとした打ち合わせや相談時に、すらすらすらと図を描き、二次元の平面にいろんな要素が図示され、関係づけられ、ものの見事に思考が整理して示される。イラストレータとかパワーポイントなどという野暮なものは使わない。フリーハンドで、紙の上に鉛筆やペンで描くだけだ。しかしそれでもそうした手描きの図には要点がくっきりと現れており、明瞭なことこの上ない。そんなときは本当にすごいと思う。
デッサンという古典的な科目がある。デッサンは日本語で「素描」と訳してしまうと、ちょっとニュアンスが損なわれてしまう。デッサンのもとになった、disegnoというイタリア語では、もともと図示するという程度の意味が次第に大げさになって、16世紀には目に見えないアイデアを知的に直観するというようなたいそうな意味が担わされるようになった。そこまで言わなくても、デッサンとはアイデアを視覚化することだ、というのはわかりやすい定義だろう。素描というより、構想設計と訳した方がまだよいかもしれない。ふわふわと漂うだけの思考は無意味で無価値である。くっきりと形を伴って、明瞭な姿で他人に共有されてこそ、意味がある。言語化されない思想がただの夢であるように、視覚化されないアイデアはただの空想である。デッサンは思考を明瞭なものにする。あるいは思考を空間化ないしは物質化する。同じくdisegnoを語源とするデザイン(design)も同様である。この世に新しい形を構想してもたらすことことがデザイン(=デッサン)であり、何も新商品のおしゃれな外観がデザインというわけではない。
そしてデッサンは着想の視覚化というだけではない。私たちが不断、自分の目で見ているような気になっているものも、実のところ、そんなにろくすぽ見ているわけではない。大体のところは、必要な情報だけピック・アップして、それが何であるか、あるいはそれが自分の役に立つかどうかを見分けているだけである。人間はいつも生きるのに忙しい。ものをじっくり見ることには時間も労力も割こうとしない。しかしわざわざ何かをきちんと見ようとしないなら、いつまでたっても同じものを同じようにしか見ていないのである。それは、おおげさな物言いをすれば、自分の世界を惰性のままに承認することでもある。あるいは問題があろうとなかろうと、曖昧なままに世界を受け入れることである。明晰に意識すること、はっきりとものを見極めること、そうしたクリアな認識には、もうちょっと能動的な面倒くささがある。しかしその面倒くささは、惰性に流されがちな自分を自由にしてくれる。
20世紀末には、ポストモダンのけったいなブームのあおりで知的に明瞭なものよりも、混沌や猥雑なものがもてはやされることもあったが、やっぱりそれでもクリアなものは素敵である。何年か前に、建築家の小杉宰子さんの書いたどこかの手描きの図面を見たことがある。簡素で明快、このときもつくづく感心した。腕に覚えのある方のデッサンは、わかりやすいだけでなく、それだけで、実現を確信させたり、あるいは実現に向けての具体的な議論を可能にする力がある。そしてそのとき、それを造園家の尼﨑さんが見て、なかなかええ線を描くなあ、と言ったときは、そうかこれはやっぱり良いデッサンなんだと嬉しくなった。
デッサンは一種の言語である。言語が世界を分別する手段としたら、概念とは別に手で引かれた線によっても、混沌とした世界は分別される。それは何も美術作品の下書きではない。自分たちの行き方のガイドラインにもなる、世界観察の方法である。