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アネモメトリ -風の手帖-

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#308

人生の目標
― 早川克美

荒野

(2019.02.24公開)

「あなたの人生の最終目標は何ですか?」と聞かれることが不思議とよくある。

尋ねて来た人に、答える前に同じ質問を聞き返すと、「今、それを探している」と言う。私が目標を掲げているように見えるらしい。「目標が見つからないから不安なんです」とも言う。そんなに目標は生きる上で必要なのだろうか。大きな目標を掲げることは日々のモチベーションを高めるだろうけれど、それを達成したらどうするのだろう。また、目標を探すのだろうか?目標がないと人は生きられないのだろうか。

そんな時、オスカー・ワイルドの一節を思い出した。

「銀行家になりたい人は、銀行家になる。弁護士になりたい人は、弁護士になる。自分以外の何ものかになりたい人は、それになって終わる。
一方、自分自身になりたい人は、どこに行くかわからない。どこに流れ着くか、自身でも知らないのだ。」(オスカー・ワイルド『獄中記』より)

自分自身になりたい人は、定まらない未来に不安を抱え続けることとなる。だから人は、不安を抱えて生きることがつらくて、目標に頼るのではないだろうか。しかし、目標は人の拠り所になる反面、人を拘束する。そして、目標のゴールは、その先に流れるであろう未来の時間を一瞬でも止めてしまう。自分自身になりたい人にはゴールが定かではないから、どこまでも続く自由がある。

さて、冒頭の質問の答えは「私は私になりたい。」。

ワイルドを真似た訳ではない。私には、幼い頃から自分の中に「こうありたい」という「私の像」があり、いつも少し前を歩いている。その像は、具体性を帯びていない観念のようなもので、常にアメーバのように変化し続けている。だから、どこまでも決して追いつくことができない。捕まえられないものを追いかけていること、これは、正直とても苦しい。だからといって止めることもできない。そういう生き方しか、私にはできないからだ。

時折、自分の目の前に広がる荒涼とした荒野のような景色に呆然とする時がある。しかし、これは捉えようによっては、どこに進んでも良いのだという自由がある。また、自分自身との戦いのようなものなので、他者と比較して苦しむことがほとんどない。これは心を開放させ、さらに自由にしてくれる。

自分には何が向いているのだろう、自分は何に成ったらいいのだろうと、自分探しをする人が多い。若者だけでなく、年を重ねた大人も彷徨っている。探すのは、そこではないのではないか。自分自身になることは容易なことではないが、苦しくも自由な終わりなき旅の選択は、人生を味わい深いものにしてくれると思う。