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#307

史蹟と京都
― 石神裕之

御土居

(2019.02.17公開)

今年は「史蹟名勝天然紀念物保存法」が1919(大正8)年に公布、施行されて100年の節目にあたる。写真は秀吉が築いたとされる京都市北区鷹峯の「御土居」と石碑。

石碑正面には「史蹟 御土居」、右側面には「昭和十二年十一月建設」と戦前の造立日が記されているほか、左側面には「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ 昭和五年七月文部大臣指定」とある。

ここで読者のみなさんに質問。いま京都府内には神社仏閣や旧居、庭園、古墳など国指定史跡(特別史跡を含む)が136件(2018年現在)存在している。ではこれらが指定された時期は、戦前と戦後でどちらが多いか、お分かりだろうか。

その答えは後で述べるとして、こうした史跡や自然保護の動きがなぜ生まれたのか。少し考えてみたい。

あらめて「史蹟名勝天然紀念物保存法」成立前夜の日本を顧みると、明治政府による殖産興業の政策のなかで、足尾銅山の鉱毒流出による環境被害の例を引くまでもなく、日本各地で自然破壊や文化遺産の消滅が進んでいた。

そして1914(大正3)年には第一次世界大戦が勃発。日本は日英同盟を根拠としてドイツへ宣戦布告し「参戦」した。

主戦場であるヨーロッパから遠い日本は、世界的に品不足となった繊維をはじめとして造船、製鉄などで生産が拡大、未曽有の好景気を迎える。

こうした日本経済の拡大はさらに活発な国土開発を促し、史蹟や自然が破壊されていったのである。そうした状況を憂いた一人が徳川頼倫(とくがわ よりみち1872~1925)であった。

紀州徳川家15代当主であった徳川頼倫は、英国ケンブリッジ大学への留学経験を持ち、西欧貴族の文化活動に大いに刺激を受けたという。

そうした背景から、1902(明治35)年には私費を投じて、東京市麻布区の自邸内に南葵文庫を設立した。この南葵文庫は紀州徳川家旧蔵本約2万冊を母体としたもので、最盛期には、蔵書数が12万冊を超えたという。ちなみにこれらの蔵書は、1923(大正12)年におきた関東大震災で被災した東京帝国大学図書館の復興のためにその大半は寄贈され、現在に至っている。

こうした文化活動を通じて頼倫は多彩な文化人と交流し、史蹟名勝天然記念物の世界に導かれることとなる。

1911(明治44)年12月、史蹟名勝天然紀念物保存協会が発足した。その会長となったのが徳川頼倫その人であった。実は、この年の3月に貴族院において「史蹟及天然紀念物保存二スル決議」が徳川頼倫や徳川達孝(田安家当主・貴族院議員)、田中芳男(博物学者・貴族院議員)、三宅秀(医学者・貴族院議員)などの発議で提出され、可決されたのである。

すでに古社寺保存法(1897[明治30]年制定)によって、寺社の建造物や宝物類については保存活動が進んでいたが、城跡や庭園、古墳などの文化遺産や動植物などの自然遺産については保護の制度がなかった。この発議は、こうした文化財の破壊を憂いた頼倫らの精力的な活動の第一歩であった。

さて、史蹟名勝天然紀念物保存協会はあくまでも民間機関であったが、その内実は国会議員や内務・文部官僚らも加わり、政治的色彩は濃かった。とはいえ、伊東忠太、関野貞、坪井正五郎、本多静六、三好学ら各専門領域の研究者を多数メンバーに加え、学術的な視座から活動を行った。

他方、翌年に明治天皇が崩御し、天皇の足跡を偲ぶ「聖蹟」を調査することが事業として加わるなど、郷土の史蹟や名勝、名木老樹ばかりではなく、「国体」を意識した活動を含んでいく。

そして保存協会主体で史蹟や名勝、天然記念物の保存の概要をまとめたうえで、貴族院に法案を頼倫ほか6名の発議で提出。先述のように成立したのである。

この法案成立後に内務省主体で「史蹟名勝天然紀念物調査会」が発足。その会長には内務大臣床次竹二郎が就任、保存協会のメンバーを取り入れつつ、実際の選定がおこなわれることになった。そして日本各地で「史蹟」調査がここから始まる。

ここで京都の史蹟の話に戻そう。現在136件ある「史跡」のうち、戦前期に指定された件数は69件。戦後は67件でその大半が史蹟指定されていたのだった。

京都府で最も古い史蹟指定は、1921(大正10)年。西寺跡(京都市南区)と函石浜遺物包含地(京丹後市久美浜町)であった。実は京都府は早い段階から史跡調査に着手しており、「史蹟名勝天然紀念物保存法」が制定された1919(大正8)年には、『京都府史蹟勝地調査報告』をいち早く刊行していた。

その後、伊藤仁斎の古義堂跡(京都市上京区)や大沢池(京都市右京区)、天橋立(宮津市文殊ほか)、平等院庭園(宇治市宇治蓮華)など多彩な史蹟が指定されていく。

他方、史蹟や名勝だけでなく、実は明治天皇の聖蹟も多数選定され、例えば京都市内では、明治天皇行幸所木戸邸(1933(昭和8)年指定)をはじめとして6件の聖蹟が存在していた。しかし、これらはすべて1948(昭和23)年6月、GHQの指示により指定解除となった。

ちなみに戦前日本の史蹟・名勝・天然記念物の数は1508件。そのなかで「史蹟」は603件あり、377件が「聖蹟」であったという。

彫刻や建造物など、「モノ」を単体として指定保護するばかりでなく、過去の人々が作り出した空間・景観としての「史跡」や「自然」を保護しようという試みが、20世紀初頭という時代において関心がもたれていたことは意義深い。

しかしその一方で、その意図が純粋に文化遺産の保護にあったかといえば、多義的な意味をもっていたことは、先述した史蹟指定のあり方が物語っている。社会の趨勢と文化財は切り離すことができないのだ。

なお「史蹟名勝天然紀念物保存法」は1950(昭和25)年8月29日をもって廃止され、史跡などの保護は、現行の文化財保護法に引き継がれた。

その文化財保護法がこの4月に改正される。その目的は、これまで以上の「活用」を企図したものという。

いま文化財として指定されているものは、先人が後世に残すために積み重ねた努力の上になりたっているものが大半である。

それをいま引き継いでいるのは自治体の専門学芸員の方々であるが、その活動に対して政治家などからの批判があったことも記憶に新しい。

くわえて、法改正により文化財の保存・活用の所管が教育委員会から首長直属の部局にすることが可能となる。多くは観光部局など合併され、文化財は適切な評価をなされるのだろうか。文化財の将来は決して安泰とは言えない。

文化財の歴史的意義を多くの人々に理解して頂くためには、「活用」は望ましいことではある。しかし、その適切な活用やその前提となる十分な保存活動を進めていくためには、行政に頼るばかりでなく、地域の市民たちがしっかりと見守っていくことが不可欠となろう。

開発行為による遺跡破壊や災害による被災、無住寺院における仏像の盗難など、文化財受難の時代。その保存・活用のためのスキルを、いまこそ市民自らが学ぶべき時代に差し掛かっているのではないだろうか。

【参考文献】
森本和男『文化財の社会史』彩流社、2010年
「国指定文化財等データベース(文化庁)」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.html(アクセス日2019年2月14日)