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#60

空洞の戯言
― 早川克美

sora_7

(2014.04.27公開)

何も思い浮かばない。言葉もアイデアの片鱗すら思い浮かばない。
視覚的なイメージとしては、タンスの引き出しだ。引き出しのすべてが開いていて、中身はすべて出されて空っぽになっている。時折、落ちかけた靴下がへりからぶら下がっているが、穴が開いていて使えやしない。一段一段何度も確かめるのだが、どこにも探しているものは入っていない。あぁ、と私は絶望する。また空っぽになってしまったと過去の記憶がささやいている。そう、わかっていたことなのだ。近い将来この時がやってくることを。

時折訪れる空洞のような思考の感覚に、私は悩まされている。これは子供の頃から味わってきた流行病のような避けられない事態なのである。定期的に来るのであれば、予防策を講じることもできようものの、ある日突然なものだから、こればかりはどうにも避ける事ができない。前日までのひらめきや言葉の数々も遠い過去となり、自分の中でそれらはすべて消費されてしまい、今や使うことができない。私は思考が消費されることが何より恐怖で、しかも、確実に消費される宿命だと思っているため、消費されたと自分が実感した言葉や思考を再び使うことがなかなか容易にできなかったりするのだ。常に新しいアイデアが生まれるのは当たり前、というそれまで日常だった意識が、すべての思考にブレーキをかけ始める。「インプットとアウトプットのバランスがとれていないんでしょう?」という小洒落たアドバイスが耳元でささやくが、そんな悠長なバランスの問題ではないのだ。一度この空洞期がやってくると、インプットすることを拒絶し、空っぽのままの状態がある期間続くこととなる。
こうなると、まさにお手上げである。もちろん、社会的生活を営んでいるわけなので、仕事も人間関係も環境にも悪影響を及ぼすわけにはいかない。そう、なんとかごかましごまかし生きていくこととなる。幸いにも幼い頃から経験してきたことなので、ごまかすのは随分と上達し、まわりから悟られることはない。しかも、そんな時に限って「いいこと言いますね!」などと、褒められたりするものだから、ますます調子が狂ってしまう。ごまかしている自分をごまかしているようなわけのわからない気分になる。つまりは、他人にとって、この私の変事は何ら影響しないということは、私の引き出しは一体何だったのか?という自己への疑いさえ生じてくるのだ。
この状況は何年かに1回あるという意味では不定期で、その期間も違う。1週間の時もあれば、1ヶ月近い時もある。首をすくめて嵐が通り過ぎるのを待つような気分なのだが、何もせずに手をこまねいているわけでもない。インプットのスイッチが入るように、文字通り必死にもがく。このもがきが滑稽だが重要だ。まず、本を読もうとする。しかし、これはなかなかうまく行かない。何度も試みたところ、初期段階では、文字情報は適していないということがわかっている。次に、映像。映画を観る。新作ではなく何度も観たような映画が入ってきやすい。意識的に考えることから離れる作戦だ。そして何度も観ているのに新しい発見があった時は、すでにここで改善の兆しが見えている。その次は、音楽。曲による情動が煩わしく感じる段階から、リズムに身体が動くようになり、踊り始めたらしめたもの、身体からの回復だ。身体に意識が移るとようやく脳内も活動モードになっていく。身体と思考の密接なつながりを感じる。そして散歩。とにかく歩く。歩く速度で目に入ってくる情報に鋭敏になっていく。漠然と見つめていた日常に些細だけれど希少な発見をしては、自分と世界のつながりを実感していく。物理的なモノの集積もこのような時は助けになってくれることがある。ある著名なデザイナーは、本当の引き出しに、様々なモノを色別に分類収集し、自分のアイデアが枯渇した時の支えとしていたと聞いたことがある。私の場合は本棚の整理だろうか、テーマ別に整理した背表紙を眺めながら、内容を思い浮かべる作業は、1冊を読むよりも視覚的で速度があり、有効に感じている。不思議なことに、このプロセスに他者を介入させることは稀で、あくまでも自分自身を見つめる内省が必要なのだと思っている。
最近では、昨年の秋にこの時期があった。今、書いたようなプロセスを経て、1ヶ月弱を苦しみ過ごした。何度経験しても学習しない自分が腹立たしかった。近所の散歩では上手く着地できなかったため、最後は上高地を訪れてトレッキングし、鳥のさえずりと風の音と息遣いだけが聞こえる世界の中で、やっと再生することができた。この時、感じたことは、自分の空洞は、自分自身を過信した結果起きているということだった。大自然の中、何者でもない素の自分を見つめる時間は、この過信を自戒させるのに十分だった。
そして今、私は空洞と闘っている最中なのである。

ここまで読んでくださった方には、さぞや私のことが心配になられていることだろう。このコラムの題材が見つからなかった苦肉の策として、どうして思いつかないのかを正直に書くこととした。そして今後、このような事態となってもこの記事のような手はもう使えないことも覚悟しなくてはならないだろう。どうかお許しいただきたい。モチベーションが上がらない、何も思いつかない時はどなたにでもあると思う。そんな時、どうしたらいいか、困ることも多いだろう。もちろん、それぞれの方がご自身で乗り越えて日常を営まれていることだろう。そんな中で、脳内スランプに対して悶々と過ごす私の愚かな試行錯誤の時間が、笑い話のひとつにでもなったら、恥を忍んで書いたことが報われるというものである。こうして、書かせていただき、私の現・空洞期も終焉に向かいそうである。最後まで読んでくださった方に深謝したい。