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#61

公共の「かたち」
― 下村泰史

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(2014.05.04公開)

以前、「都市デザイン論」を担当されている井口先生と話しているときに、「都市をかたちづくる3つの要素」というのが話題になったことがある。「人」とか「消費文化」とかということ以前に、どういった物的要素によってという都市空間は形作られているのかという話だ。先生が示された正解は「道路(などの公共空間)」「敷地」「建築」というものであった。最初に道があり、それによって区切られると同時に相互に繋がれる「街区」が生まれる。「街区」が分割され「敷地」が生まれ、そこに建築が生まれる、というのである。
「敷地」に生えてくる建築を、美しく意味深いものにしようという仕事はある。建築デザインである。建築のないオープンスペースを美しく意味深いものにしようという仕事もある。ランドスケープデザインである。しかし、まず最初に登場する「道」についてはどうだろうか。これを美しく意味深いものしようとする仕事というのはあるのだろうか。
先の議論によれば、道は都市を都市たらしめるもっとも基本的なもののように見える。それは、都市空間の骨格であり、血管でもある。都市に構造を与え、さまざまな人や物が流動する経路になるからである。この道において、私たちはいろいろな経験をする。そこには風光があり、街並みがあり、見知らぬ人々がいる。もとよりさまざまな意味が常に生起している空間なのである。
しかし、そこをより美しく、意味深いものにしようという仕事はあるだろうかといわれれば、なくはないが、あまりない、と答えざるを得ないであろう。
建築は建築家が、公園や庭園は造園家が構想する。道は土木部門の官吏が構想する。道路は、ダムやトンネル、河川、港湾施設などと同様、土木構造物なのである。そしてその重要な性質として「公共施設」であるということが挙げられる。
土木においては、その美を云々することは、基本的に歓迎されない。もちろんその美しさについて考えている人はいる。土木デザインに関する部会は、土木学会の中に存在している。役所の都市デザイン部門が機能している都市もあるだろう。しかし一般的な市町村の土木の実務部門で、デザインが本来業務として検討されることはまずない。デザインはあくまでも「オプショナル」なものなのである。
美しい土木は存在するか、と言われれば、それはもちろん存在する。巨大なダムの中には研ぎすまされた機能美とむしろ崇高というべき圧倒的な偉力を見せるものがある。また近代の土木構造物の中にはよく練られた優美なディテイルを持つものも少なくない。それは建築のファサードや並木と一体となって、美しい都市の経験を作りだす。
しかし現代日本の一般的な土木構造物に美的な配慮はほとんどない。計算だけで作られた無表情なものか、思いつきのような意匠が表面に施されたものばかりである。どうしてそうなってしまうのか。
土木分野の大きな特長として、その目的物のほとんどすべてが「公共施設」であることは先に挙げた。誰もがそれを使用できる、誰もがその機能の恩恵に与れるという性質のものである。またそうした性質上、それを造るための経費は、人々が収める税金によって賄われることになる。このことは、それら構造物を構想し造ることについて、利用者・享受者であり納税者である人々への説明責任が生じることを意味している。
説明責任があるなら、ちゃんと説明すればいいのであるが、どういう人からどういう説明を求められるかわからない。一定の範囲の、人となりのわかっている人たちが使うものなのであれば、その人たちにきちんとわかるように説明すればよいのだが、都市レベル、府県レベル、国レベルとなってくると、そうはいかない。誰でも説得できるようにするにはどうしたらよいか。
普通に考えれば、その機能とコストについて「客観的」に示すということになるだろう。では「客観的」にそれを示すにはどうしたらよいか。そこで出てくるのが、数値によって示される科学的工学的な根拠である(本当は、「客観的」=「数値」なのかどうかは丁寧な議論が必要なのだと思う)。この時点で数値で説明しやすい機能が限定され、その顕現のみを目指す設計がなされる。またその構造がもっとも合理的でありローコストであることを示す膨大な資料が用意される。かくして不特定の人々に対する説明可能性は極限まで高められる。それが人々における理解可能性の向上に寄与するかどうかはまた別問題なのだが。
こうした機能とコストの問題は、土木構造物だけでなく、デザインがなされた一般の製品にもあるように見えるかもしれない。しかしそれらのユーザであり支払者である人々は、マーケットの向こう側にいる。それらの製品は、不特定多数の人々ではなく、一定の感じ方、考え方、行動様式を持つターゲットを想定するものである。公共の土木施設は、そうしたユーザの感性といったようなものの存在はほとんど全く想定しない。それはノイズなのである。私自身、土木技師として働いていたことがあるが、ちょっとしたデザイン的な配慮をしようとしたときに、鬼軍曹的な係長から言われたことがある。「それはな、しもちゃん。君のマスターベーションに過ぎんのとちゃうか。デザインとかそういうのは、人の好きずきやろ。」 マスターベーションとは、ここでは「自己満足」という意味合いで使われていたのだと思う。だが同時に、感覚に訴えるものに対する嫌悪も、そこには表現されていたように感じるのである。土木分野に代表されるような種類の公共性は、「計算し考える人間」には開かれているが、「感じる人間」には開かれていないのである。
私はここで市場的なものをもちあげて、土木的・公共的なものを貶めようとしているのではない。むしろ公共的な場だからこそ可能な経験というものがあるはずだし、それを可能にし守るデザインがあるはずだと考えている。公共分野への安易な民間ノウハウの導入には、注意深くあるべきである。渋谷の宮下公園、京都の梅小路公園といった公園の整備で民間資本の導入が図られたが、それらがさまざまな観点から反対運動を引き起こしたことは記憶に新しい。
しかしながら、この文章を書いている私には、やはり今の土木空間とそれを造りだす土木文化というものに抗したいという気持ちがある。それは、数値至上の土木的客観主義が公共性を標榜しながら、一方でより高次の公共性を阻害しているのではないかと考えるからである。簡単に言えば、「感じない」ことを前提とした公共空間づくりであり、「感じる人間」の排除である。これは空間の美醜の問題に尽きるものではない。一般的な機能を楯にしての、河川敷や道路からの音楽活動や生活の排除に繋がっている。
話がとっちらかってきたのでそろそろ筆を置きたいと思うが、その前に公共部門において土木的客観主義を乗り越える可能性が見える場面をふたつほど挙げておこう。
一つは河川土木の場面である。河川は自然物のようであるが、土木構造物でもある。河川局は道路局と国土交通省内で覇を競う一大勢力であったりもする。そして、戦後の日本の川づくりはまさに水源としてと排水路としての高性能化を目指す整備を行ってきた。まさに土木的な発想である。しかしそうした技術官吏の独裁では解決しない問題が多々見えてきた。水とともに生きてきた人々からの反対運動が相次ぎ、川の整備には上下流の市民の合意形成が必要であり、その基盤としての河川の自然環境の保全が重要であることが、行政サイドにおいても広く共有されるようになってきたのである。ここでは、河川とは単機能の空間としては語りきれないものであるという理解がある。河川法はその目的を「治水」「利水」「環境保全」の3点としている。道路法が道に交通機能しか見ていないのとは対照的である。河川という一つの空間にこの3つの価値が重なって存在しているという理解は、これまでの土木の空間理解とは一線を画すものである。また、河川と人々の関わりの多様性が意識され、上下流のさまざまな人々の間のコミュニケーションの中から整備する河川像を作り出そうとする淀川水系流域委員会の方法は極めて先進的であった※。
いまひとつは、近年のコミュニティ・デザインの動きである。この芸術教養学科の受講生の中にも関心を持っている人が多いのではないだろうか。山崎亮先生の活躍とともに、人々の話題に上ることが多くなってきた。
メディアにおけるコミュニティ・デザインの盛り上がりについては、専門家の中には「?」という感じを持っている人も多いようだ。住民のワークショップによって地域づくりを進めてきた先進的な事例というのはこれまでもかなりの蓄積があり、そこでは多くの建築家、都市計画家、造園家の献身的な努力があった。そうした仕事を知るものからすると、今話題のコミュニティ・デザインがどう違うのかわからないようにも見えるのである。
私が見るところでは、これまでの住民参加型まちづくりとは、コミュニケーションのあり方が随分違うように思える。ワークショップの結果をマイクロソフト・ワード文書のような報告書にまとめるのではなく、住民に対しても行政に対しても、また外部に対しても、デザインして提示しているように思われる。ワークショップのプロセスのオリジナリティよりも、フィードバックの掛け方のデザインが、訴求力を高めたのではなかっただろうか。
河川づくりとコミュニティ・デザインの事例から何が言いたかったかというと、一つは空間を単機能のものとして捉えないこと。もう一つは、多数の声から生まれる空間があるということ。この二つから生起する公共性は、土木的客観主義の中では見過ごされてきたもののように思う。そしてそれこそ、今恢復されるべきものなのだと思う。山崎先生をはじめ、地上のハードウェアの設計に携わってきた人たちが、コミュニケーションの仕事に向かっているのは、その顕われだと思う。私自身もそうしたところの近くにいるのだと思う。
公共性は、公共施設管理の手続きの中にではなく、公共空間でのアクティビティの中にやどる。公共空間でのコミュニケーションの中にやどるのである。
さて今回のコラムは、空間を分割すると同時に繋いでいく道の話題から始まった。最初の道は、何もない地面に描かれた線だったのだろう。そこには「空を描く」ような軽やかさをもった公共空間がたぶん夢見られているのだ。