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アネモメトリ -風の手帖-

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#59


― 野村朋弘

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(2014.04.20公開)

明治において「桜はわが国の国花だといひ、そして日本精神の象徴だともいふ」(山田孝雄『櫻史』)といわれるほど、桜は日本人に愛されている花である。 今日、この「桜」といえばソメイヨシノを想い浮かべる人も多いだろう。しかし、日本には多種多様な桜がある。品種はとても多く、野生種や自然雑種、そして栽培品種の系統があり、思いつく限りで列挙すると、寒桜、唐実桜、江戸彼岸、染井吉野、大島桜、八重桜、山桜、高嶺桜、冬桜などがある。これらの花が咲く時期が異なっており、全国的に見れば一年を通じてどこかで桜が咲いている。

時代はさかのぼり古代。日本人が愛でる花が、梅から桜へと変化していった時代が平安期であり、『古今和歌集』や『和漢朗詠集』でも桜は取り上げられ、歌に詠まれて来た。桜が古代から現代に至るまで日本人の生活の中に深く浸透し、息づいている証左ともいえるだろう。 しかし、今日の我々が思い描く桜と、平安王朝の人々が思い描く桜とでは些か趣きを異にする。 今日、桜の代表例とされるソメイヨシノはさほど古くからあるものではない。明治初年に江戸の染井で奈良の吉野にあやかって「吉野桜」として売り出された桜であり、吉野の山桜と混同されないためにソメイヨシノ(染井吉野)と命名された。ソメイヨシノはその後、日本全国に植栽され、春の桜の代名詞となっていく。特徴として他の品種と異なり、一本ずつで咲く時期が異なることはなく、同地域のソメイヨシノはほぼ同時に咲く。これからシーズンを迎えるであろう、北海道函館市の五稜郭を例にとれば、1600本ほどのソメイヨシノがあり、ゴールデンウィークを中心として一斉に咲き誇る。こうした光景が、我々現代人にとっての「桜」のイメージといえるだろう。

翻って古代ではどうだったのだろうか。『源氏物語』第四十一帖の「幻」に、庭の桜に関する記述がある。この「幻」は物語の主人公である光源氏が、紫の上を追悼し思い出している段なのだが、この中に、 「花は、一重散りて、 八重咲く花桜盛り過ぎて、樺桜は開け、藤は後れて 色づきなどこそはすめるを、その遅く疾き花の心をよく分きて、いろいろを尽くし植ゑおきたまひしかば、時を忘れず匂ひ満ちたるに」 とある。貴族たちの邸宅は、寝殿造りのとても大きいもので、庭のサイズも広大である。池の周りに桜の種類や、花の咲く時期を把握し、多品種を植えていることはよく行われていた。つまり、多品種の桜があることによって、時期の少しずつ異なる桜を観賞出来たのである。 今日のソメイヨシノの木々であれば、すべての樹が一週間ほど花を共有する。桜前線の言葉にあるように、あっという間に盛りは進んでいく。しかし、平安時代では一ヶ月ほどのゆっくりとした流れで様々な桜が観賞されていた。

時代は少し下り、中世の鎌倉時代。 ト部兼好の書いた『徒然草』137段は、「花はさかりに、月はくまなきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行くへ知らぬも、なほ、あはれに情深し。」と始まる。徒然草の中でも、不完全の美を述べたものとして殊に有名な一段である。冒頭の箇所を意訳すれば「桜の満開を、月は満月だけを愛でるというのもどうだろうか。雨を眺めつつ月に思いを馳せ、簾をたれて内に籠もり桜の花を思うことも、趣がある」といえようか。後半の「垂れこめて春の行くへ知らぬ」は、『古今和歌集』の「垂れこめて春の行くへも知らぬ間に待ちし桜もうつろいにける」を連想させる。 続けて兼好は、満開の桜だけではなく、その時折の趣を大切にすべきだと説く。

今日の我々であれば、この一文に対してソメイヨシノの花が一週間ほどで一気に過ぎ去った後と思ってしまう。しかし、前に挙げたように、都では一ヶ月ほどのゆっくりとした時間の中で桜は観賞されていたとするならば、その期間、世の浮かれた流れに逆らって邸宅に籠もり、自身の美意識を曲げなかった兼好の姿が想起できるだろう。 桜を愛好するのは古代人も現代人も同様だが、古代・中世では、品種はもとより期間など多様性が現代よりもあったといえる。そうした多様性・歴史性を踏まえて改めて桜を鑑賞すれば、兼好のような美意識が養える、かも知れない。