アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

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#91

救われた静坐社の泰山タイル
― 本間智希

(2020.07.05公開)

追加2

 2013年から3年、本誌『アネモメトリ』の編集に関わらせていただきました。
特に「手のひらのデザイン」や「風を知るひと」を毎月担当し、編集業のいろはを教えていただきました。
4年ぶりに”凱旋”の機会をいただき光栄に思います。

「手のひらのデザイン」は身近な道具に焦点を当てたシリーズだと心得ています。
私が取り上げるのはライフワークである解体と、それによって救われたタイルについてです。道具っぽくないですが、タイルも単なるコレクションではなく、タイルをツールにさまざまな展開を考えていまして取り上げさせていただくことにしました。
もともとタイルは建築に使われる建材の一つなので、そういう意味でも道具と言えるかもしれません。

京都の吉田山の西麓に「静坐社」と呼ばれる洋館がひっそりと佇んでいた。

2016年5月、87年の歴史に幕を閉じ、解体された。
所有者様のご厚意により、解体業者が入る前の現場に入って、様々な学術分野の研究者や建築家・大工・美術家らで建物の記録や部材の救出をおこなった。
屋根裏に残された棟札から、竣工は昭和4年(1929)で、請負人は熊倉工務店の創業者の熊倉順三郎と判明。熊倉工務店はいち早く西洋の住宅様式を日本の伝統的な住宅様式に取り入れた日本の近代住宅史において重要な工務店で、京都を中心に文化財級の近代住宅を数多く手がけている。
静坐社には、近代化を象徴するタイルが外装・内装の随所に多用されていた。
特に玄関前の床は、様々な色形の窯変タイルを割り付けた集成モザイクで目を見張るものだった。

静坐社の玄関

静坐社の玄関

このような奥行きと透明感のある釉薬の窯変タイルは「美術タイル」とも言われた。
「美術タイル」は、明治後期には京都に陶磁器試験所、その後は国立の陶磁器試験場ができた背景から、衛生陶器であるタイルの製法と京焼の伝統が培った高度な技法と釉薬の2つが融合して生み出された近代化の賜物だった。
一度は多治見の解体業者が「この床は取れない」と諦めた床のタイルを、諦めきれず、京都の建築家・大工・美術作家・学生、そして建築史家である私の5人で、人力で剥がした。
本解体が入る前に私たちに残された最後の1日、執念だった。

人力でタイルを引っ剥がす

人力でタイルを引っ剥がす

タイルを丁寧に剥がしていく

時間の許す限り1枚でも多くの集成モザイクを丁寧に剥がしていく

モルタルに転写されたタイル裏地の泰山の銘

モルタルに転写されたタイル裏地の泰山の銘。三本の円の曲線に囲われた泰の字

剥がされたタイルの裏面の銘から、泰山製陶所製であることが明らかになった。
創業者の池田泰山は明治24年(1891)に愛知県で生まれ、18歳で京都市陶磁器試験場に伝習生として入所、当時最先端の陶磁器に関する釉薬や焼成の技術や知識を身につけた。
26歳で現在の京都市南区東九条に泰山製陶所を設立、泰山タイルの名で独自の美術タイルをつくりはじめた。
宮家の邸宅から庶民の銭湯やカフェまで、近代建築の近代装飾として泰山タイルは広く愛され、使用された。
特に京阪神には、大阪綿業会館、甲子園ホテル、先斗町歌舞練場など、泰山タイルが使われた名建築が多い。本誌でも、2015年10月「現代に生きるタイル 前編 京阪神に息づく、タイルのある風景」で、泰山タイルに焦点を当てた特集がされた。
静坐社は泰山の38歳の時の仕事で、窯変タイルによる集成モザイクの技法は泰山の真骨頂とも言えるものだった。解体前に救出した泰山タイルの一部は現在、2016年に建築史家・建築家である藤森照信氏の設計でオープンした多治見市モザイクタイルミュージアムに収蔵され、展示されているので、訪ねた折には是非注目してほしい。
『アネモメトリ』2015年11月号では、まだ準備室時代の多治見市の取り組みが特集されている。「現代に生きるタイル 後編 再び見いだし、未来につなげる 多治見の取り組み」

多治見市モザイクタイルミュージアムに寄贈されたタイル

多治見市モザイクタイルミュージアムに寄贈されたタイル

救出されたタイルたち

救出されたタイルたち

このような建物が、文化財未指定どころか存在も知られないまま、まだまだ残っているところに京都の奥深さを実感する。
一方、京都で暮らしていると、物凄いスピードで、それこそ直喩的に音を立てて、古い建物が毎日どこかで解体されていく。最古級の京町家まで開発によって消失するなど、文化財の建物ですら解体される現状である。
年間800軒の京町家が解体されているという実態調査が報告されているように、誰でも30分ほど町を歩けば、3つ、4つの解体現場、建設現場を目撃できる。「京都を歩けば現場に当たる」とも言えるだろう。
固定資産税や相続税など税制上の問題も当然あるなかで、個人的には、インバウンドの錦の御旗のもと観光客5000万人構想で突き進み、古い建物の解体に歯止めが効かなかった昨今の京都の歩みが、コロナ禍で潮目が変わることに淡い期待を寄せている。
一方で、解体せざるを得ない所有者さんの葛藤や忸怩たる思いを何度となく目撃した身からすると「頑張って残せ。保存しろ」なんてとてもじゃないけど言えない。
これまで多くの保存運動を近くで見てきたが、「解体か、保存か」の二項対立は対立と分断しか生まない。
安易な二項対立に陥ると、本音では解体したくなくとも止むに止まれず決断した所有者さんは、保存を叫ぶ人たちや世間に引け目を感じ、人目を避けるように建物を仮囲いで覆い、誰も現場に入らせず一刻も早く更地にして、駐車場や新しい建物を建ててしまう。
私たちは街を歩いていると、「あれ、この更地って前は何が建っていたっけ?」という場面に何度も遭遇するように、都市の記憶が記録されぬまま塗り替えられていくことに危機感を感じる。
人口減少時代の日本では、建築においても「孤独死か、尊厳死か」に直面している。建築史家としてはやはり建築も尊厳死に導きたいし、建築においても最期を看取る職能が必要だと考えている。
「解体か、保存か」の二項対立を越えた、在野の建築の幸せな最期を看取り、「建築におけるものの冥利」にかなうことができれば。
そんな思いで、人知れず解体される在野の建築の情報をキャッチし、記録・制作・救出をする活動をしている。
尊敬する女優の樹木希林さんの死生観「ものの冥利」という言葉は、今の私の座右の銘でもある。

静坐社をめぐるものの冥利を振り返る。
静坐社をめぐる一連の活動は、京都新聞の紙面でも複数回取り上げていただいた。
谷根千ねっとの作家の森まゆみさんはじめ多くの近代建築ファンも最期を惜しみに訪ねてくれた。解体前、池田泰山の孫にあたるモザイク作家の池田泰佑氏にも見に来ていただき、京都市文化財保護課の紹介で、現在の熊倉工務店の方も来た。後日、社内から竣工当時の古写真が発掘された。
静坐や静坐社に関して残された資料は宗教学の若手研究者が調査研究し、貴重な資料群は日文研や南山大学に寄贈された。
<研究資料>国際日本文化研究センター所蔵静坐社資料 : 解説と目録

現役の建築家さんや大工さんらによって、転用可能な建具や部材を救出してもらい、昭和初期の家具や調度品も大切に引き継いでくれる人たちに形見分けできた。
龍村織物や西陣織など多くの着物があったので友人たちに着付けてもらい、東京の友人の写真家の黑田菜月さんと映像作家の吉開菜央さんに、静坐社を舞台とした作品を制作していただいた。1年後に完成した吉開菜央監督作品の短編映画『静坐社-Breathing House-』(2017)はその後、東京をはじめ国内外の映画祭で上映されている。2018年のニューヨークでの映画祭JAPAN CUTSには、吉開さんと共に樹木希林さんもゲストに招かれていた。京都ではまだ上映が叶っていない。

吉開菜央「静坐社-Breathing House-」2017

吉開菜央『静坐社-Breathing House-』(2017)

建物としての静坐社はもうない。
しかし所有者様のご理解と多くの関係者の協力によって、さまざまな邂逅があり、87年の歴史に幕を閉じる最期に、幾ばくかはものの冥利にかなうことができたのではないかと思う。
解体とは「体を解く」と表すように、重機で上から押し潰す行為ではなく、上棟式のように老若男女が寿ぎながら「皆で体を解く」、それが本当の意味での解体だと思う。
人口減少時代の建築のおくりびと仕事は今後も続く。
静坐社の他に京都で3件、宝塚で1件、静岡で1件、次は名古屋の現場を予定している。
都市や集落における在野の建築をめぐる一切の始末を全国行脚で請け負っている。
解体情報や相談、仲間や支援は随時、募集しています。


明け方の静坐社にて(黑田菜月撮影)

明け方の静坐社にて(黑田菜月撮影)

本間智希(ほんま・ともき)

建築史家
1986年生まれ。早稲田大学建築史研究室を修了後、2013年に単身京都へ。フリーランスとして建築リサーチ集団RADに参画。奈良文化財研究所文化遺産部での職業研究者を経て、再びフリーランスに出戻り。北山杉の里・中川で古民家を購入し、一般社団法人北山舎を設立、代表理事。京都工芸繊維大学に博士後期課程で在籍しながら、学術と実務の両面から建築史や文化的景観にアプローチしている。風土公団という解体前の現場で記録・制作・救出劇を担う在野の活動体の団長。タイルに目が無い。