アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

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#143

日記
― 岩﨑 淳

(2024.11.05公開)

ぼくは、写真と文章によって個人的な生活にある物語を語ることによって、葛藤、自分への問いかけ、無常といったテーマを探求する作品を制作している。また、2021年にCairo Apartmentというインディペンデントアートパブリッシャーをパートナーと共に設立し、本を作っている。

オランダ、デン・ハーグの短すぎた夏が過ぎ去り、秋がぼくの生活に遠慮会釈なしに入り込んできた頃に「愛用の道具について書きませんか?」とご連絡をいただいた。

ビーチから10分ちょっとの気のいい場所に住まいを見つけてしまったせいで、少しでも青空が広がると毎日のようにビーチに行き、マイペースに営みを全うする羊や水牛を眺めるような日々を過ごしている。そんな生活をしていると「ぼくには何もいらない、ここに海と太陽と砂浜さえあれば、大抵のことはうまく行くのだ」と、アルチュール・ランボーにでもなったかのように気が大きくなっている自分に気付く。しかし、気の大きさとは裏腹に、大抵の場合は自分の葛藤は、どんどんと膨らんでいく。

そんな生活の中で、自分にとっての愛用の道具といえば何だろうかと、家具のほとんどないがらんとしたリビングに置かれた黒いソファに座って考えてみた。

これまで、きのみきのままに海外移住を繰り返すような20代を過ごしたせいで、多くの「もの」は空港で没収されたり、立ち去る土地に置き去られたり、倉庫に眠ってしまったり、友人や家族に引き取ってもらったりといろいろな理由によりぼくの手元から離れていった。手元に残っている生活を彩る「もの」は一つ一つに理由や思い入れがあるが、愛用の道具というにはどうもしっくりこない。
作品を撮るのに使っているカメラも愛用の道具と言えるだろうが、後ろの方から「あなたの愛用の道具がカメラってねえ、、」とも言われているような気がした。

日記1

ぼくは、2012年に数ヶ月だけフィジーに住んでいたことがある。相互扶助の概念「ケレケレ」に興味を持っていて、思い立って現地の生活者と生活を共にしようと思ったのだ。
フィジーでは色々なことが起きた。ぼくが洗濯して干していたはずのエルトン・ジョンとビリー・ジョエルの顔が前面にプリントされたヴィンテージTシャツをホストファミリーのお母さんが着ていて丸餅のように膨れ上がった二人の顔をぼくは忘れられないだろう。あるときは、来客が来たということで一家の主がベッドを来客に譲り床にゴザを敷いてイビキをかいて寝ていた。またあるときは、自分の荷物にベッドバグ(南京虫)の卵がついてしまい、持ち物の全てを捨てることになった。

日記2

こんなことをその頃の手触りと共に具体的に思い返せるのも、ぼくが15歳の頃から日記を書いていることが影響しているかもしれない。その当時流行っていたブログに書き始めたが、徐々にきちんとしたノートに書くようになり、今は再びオンラインに書きためている。
日記、特に自分の中で決まりはないのだが、毎日少しでも言葉を残すようにしている。後日、その言葉を元に書き始めることもあれば、残された言葉を道標に旅人のように文章を書く長い旅をすることもある。

日記を長く続ける中で、ぼくは、ぐるぐると巡る自分自身の思考の流れの出口を作るような文章の書き方をしていることに気付いた。
そのためには、出来事を記録するような文章ではなく、言葉のリズムを尊重することが大切で、本来の意味を調べたりはせず、自分の言葉の使い方の癖や本来の意味とは違った言葉で使われた言葉でさえもそのまま書き残す。故にぼくの日記には誤字脱字も多い。友人にはノイズミュージックに倣ってノイズライティングとさえ言われている。
しかし、これが意外と役に立っていて、作品を作る時もよく自分の文章を読み返しては、その頃の香りとか質感を再び甦らせる装置となっている。日記は日々日付けがつけられ層状に重ねられていくのだけれど、読み返す時には層状にはなっておらずその時間は突然呼び起こされるように思う。
今では、日記を書かない日が続くとどうも気分が落ち込み、その反対に日記を書くことによって自分自身を高揚させているようである。

ふと家を見回すと、道具には椅子やケトルのような生活保持のための道具と、心の支えや精神の環境を作る道具とがあるような気がした。ぼくにとって「愛用の道具」とは後者を言うのではないだろうか。

日記3

この文章を書いている頃、ぼくの家には1組のカップルが泊まりにきていた。そのうちの1人はぼくの日記の愛読者で、同じように自分が生まれ育った国ではない場所に住み、自分の理想を追い求めて葛藤している。少なくともぼくにはそう見えている。そんな彼と一緒に家の周りを歩いていると、「ここが日記に出てきたバーですね、嬉しい」とか、「日記によく出てくるビーチに行きたいです」とか言うものだから、恥ずかしくなった。しかし同時に恥ずかしさの肩越しに羨ましさが覗こうともしているのにも気付く。誰かの文章でしか読んだことがなかった場所が目の前に存在することに対して、だ。
こんな風に人々の感情の揺れを紡ぐような仕事をしていると、自分の作品を撮るためのカメラでもなく、鉛筆や万年筆でもなく、やはり自分自身にとって愛用の道具とは精神の環境を作り続けてきた日記なのかもしれないと思った。

今日も日記を読み返しているとこんな文章を見つけた。
「生活と思考が別々のものであってはならない、思考とは実生活に裏打ちされることで本物になるのだ」


岩﨑 淳(いわさき・じゅん)

京都出身。
写真と文章によって個人的な生活にある物語を語ることによって、葛藤、自分への問いかけ、無情といったテーマを追求する作品を制作している。
また、パートナーと共にインディペンデントブックパブリッシャーCairo Apartmentとして、アーティストの制作意図に注意をはらい、ディテールによってその意図を補完し、本を制作している。本の持つ雰囲気は、本の中の物語とのインタラクティブな関係によって導き出される。

https://juniwasaki.org/
https://cairo-apartment.com/index.html