アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

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#43

土団子 物の輪郭
― 山本忠臣

(2016.07.05公開)

私は物が好きだ。物がいらないと言われる時代でもあるが、仕事柄もあって日々、陶磁器や木工などの工芸品を観たり眺めたりしているが飽きない。家業が製陶所ということもあり、幼少の頃 から陶磁器に関心を持ち始め、学生時代にも陶芸家などの展覧会にもしばしば足を運んでいた。 現在は伊賀と京都の2箇所でギャラリーを運営しているが、これまで開催してきた展覧会も157回を数える程となった。運営するギャラリー以外においても、美術館での展覧会や日常の生活道具なども含めると物を観る機会ははかり知れない。が、未だ物への関心は増し続けているようだ。
私たちが物を所有する時、たとえば1つのグラスを購入するとしよう。朝食のオレンジジュースが 美味しそうに見えることを想像したり、そのグラスで何を飲むかを想像してみたりもする。ただテーブルに置かれたグラスに美しい情景を思い浮かべたりと、グラス1つを購入するにも様々な考察をする。そのイメージがはっきりと出来上がったときに購入と相なるのだが、それら自分のイメージにまったく当てはまらない物においても無性に惹きつけられることがある。数年前になるが、とあるギャラリーの展覧会で子供のころに作った泥だんごのような物が展示されていた。その土の団子は土を乾燥させた状態で焼成はされておらず、水に濡れると溶けてしまいそうな物だった。河原にあるただの石のような形態ではあるが、どこか人の気配を感じる存在感があった。その土団子にどのような作り手の思いがあるかには関心を持つことはなく、ただ惹きつけられた。こうした物にはいつも困ってしまう。皿や湯呑のように具体的な用途を持たず、陶芸といったジャンルやまたアートにも属さない。これまで培ってきた物選びの基準、美しさの基準にあてはめ、頭をフル回転させるが、当てはまらない。感覚的に惹きつけられる無用な物はいくらその場で考えても答えがでないので、やはり自分の直感だけを信じて持ち帰ることになる。
野に咲く一輪の花を採り、また花屋で花束を買い求めて部屋に飾ることを想像するとわかるように、花を生けることで室内の空気感は一変する。部屋に飾られた一輪の花は、野にある花より時に美しく、花屋に並ぶ花より活き活きとした姿にさえも感じられる。 部屋に置かれた家具や装飾品との調和、窓からの光においても刻々と花がつくり出す空気感は千差万別に異なり続ける。私たちはその空間の移ろいを楽しみ、室内に彩りを与えることを花を活ける目的とするが、同時にもう一方では室内を背景に花を「生かす」ことを考えて花を生ける。花を生かすためには花そのものに歩み寄り、耳を澄まして花の声を聞き、感じることが必要となる。花を生け続け、その小さな声が聞こえた時に花の輪郭は鮮明となり、花の美が現れるのだろう。そう思い至ったのはある花人が投げ入れた一輪の椿を見てからである。 花人が生けた花は何百年の時代を経た掛花入と茶室空間にのまれることなく、ただ美しく咲いていた。時間はかかるだろうが、日々向かい合うことでしか得られないものがあることを教えられた。「美とは、それを観た者の発見である。創作である。」と青山二郎が残したように、美を見ようとするその行為が創作なのだろう。 ギャラリストとしてこれまで多くの作り手と共に展覧会を開催し、日常の生活の中に美を手渡す活動をしてきた。また建築家としてもクライアントの大切な物をより大切なこと感じることができるようにと設計に取り組んできた。作品は作り手の思いと生きた背景の結晶である。 ただこうした作品もまた作り手の背景から少しずつ離れ、やがて一人でにあるべき姿を求めだし歩き始めるだろう。私は物が一人歩み始めだしたその美を求めて、今日も物を眺めている。

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山本忠臣(やまもと・ただおみ)

ギャラリスト・建築家。1974年、三重県伊賀市生まれ。2000年伊賀市に「gallery yamahon」を開廊する。2011年には若手工芸家の発表場として京都に「うつわ京都やまほん」を開廊する。物と場と時間の関係性を考え、商業施設や住宅などの建築設計を行う「やまほん設計室」を主催する。