(2014.12.05公開)
和紙を染め「木版」を摺るのが私の仕事である。
もともとグラフィックデザイナーとして活動していたが、紙と印刷に興味を持ち京都へ戻ると同時に、唐紙の老舗工房に修行に入ったのが木版と出会いである。初めて目にした木版はとても美しく、道具というより一つの彫刻作品のようだった。時間が経ってもまだ彫り師の息を感じる力強い線、古典文様と一言でくくる事のできない素晴らしい意匠に衝撃を受けたのを憶えている。
私が主に使う木版は、幅1.5尺、丈1尺、7分程の厚みの朴の木。桜や桂より柔らかく彫りやすい、季節による年輪の固さの差が少ないのが朴の木を使う理由だ。歪み防止のため、裏面にはアリザンを入れる。
木版には文様が彫ってある。文様の個性(凸部分の面積、線かベタか等)により絵の具の糊と水のバランス、紙の湿し具合を考える。文様と絵の具の相性がいい時は3時間、4時間摺り続けても木版に乗っている絵の具の質は変わらず、何も考えず一定のリズムでひたすら手を動かす。まるで自分自身がアナログ印刷機械になったかのように感じるが、一度手を止めてしまうと絵の具が乾燥してしまうからだ。それをカバーしようと絵の具の量、水気などを加えると表情が変わってしまう。摺る技術自体はそんなに難しくないが、一定のリズムで一定の動きをするのはそう簡単ではない。
紙を見極め、色を調合し、均一に絵の具を乗せ、圧(気)を調節し、摺る。「印刷とは何か」を自ら体感できる印刷好きにはたまらない仕事だ。あらためていう事ではないが、やはり「木版を摺る=印刷する」なのだ。
時代が経ち木版自体に価値が付き美術館や博物館に展示されるもの、使い古された木版の佇まいに美を見いだし、古道具、古美術としてギャラリーで扱われるものもある。それは「木」そのものの経年変化と、道具として使われ人の手を介して摩耗したなんとも言えない味わいが見る人を魅了するのだろう。
個人的な意見を言えば「木版」はあくまでも道具、文字通り「版」で、石版、シルクスクリーン、活字、凸版、オフセットと変わらず、技術は違えど版は版である。
版の中でも木版は欠けやすく、保管方法をよく考えないと朽ちるスピードも早い。道具としての寿命もそんなに長くないだろう。ある一部が欠けると道具としての役目が終わり捨てられるか、先ほども記したように古道具、古美術として扱われるか。
傷つく事で役目のなくなる木版だが、たとえばその「欠けた部分」ひとつとっても、それは故意にそうしたわけではなく、仕事をする中で木そのものの限界が来て欠ける。決して目には見えないが、「欠けた部分」には時間があり、空気がある。それはノイズではなく実は木版本来の魅力なのかもしれないと思ったりもする。
「かみ添」ではプロジェクト毎に文様を考え木版を新調する事が多いので、道具としての色気はまだまだ足りないが、時間が経ち、もしまだ見ぬ誰かがこれらの木版を受け継ぎこの先も「道具」として使用され続けたら、どれほど嬉しい事だろう。
「道具は日々変化し育って行く」
木版はそんな当たり前な事を教えてくれる。
嘉戸浩(かど・こう)
唐紙師。1975年京都府生まれ。1998年京都嵯峨美術短期大学専攻科プロダクトデザイン科卒業。2002年San Francisco Academy of Art University グラフィックデザイン科卒業。N.Y.でフリーランスデザイナーとして活動後、帰国。唐紙の老舗工房での修行を経て2009年独立。ショップ兼工房「かみ添」を西陣にオープン。