アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

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#119

口紅
― 林 葵衣

(2022.11.05公開)

「最も勇敢な行為は、自分で考え続けること。そして声に出すこと」
ガブリエル・ボヌール・シャネル

「ココ」の愛称で親しまれたガブリエル・ボヌール・シャネルは、18歳まで修道院で育ち、歌手を目指しショーパブで歌ったという生い立ちをもつ世界的なファッションデザイナーです。シャネルが1920年代に女性用ジャージー素材の服を考案し、女性をコルセットから解放したエピソードはあまりにも有名ですが、どんなに過酷な状況下でもシャネルは「私はいつだって自分が着たいと思うもの以外作らない」と、自分にフィットする環境を模索する勇敢な人でした。

口紅01resize

ところで私は日常の身支度と作品制作に口紅を使っています。なかでもシャネルの「ルージュ ココ 446 エティエンヌ」という型番を愛用しています。作品制作で口紅を? と思われる方もいらっしゃるかもしれません。私は身体の振舞いの痕跡を残す作品を制作するアーティストです。画家が油絵具や岩絵具を使用するように、口紅を描画材として使用します。ただし描画する際にも唇に塗布します。口紅を塗布した口を壁やキャンバスに押し付け発話し、音声の痕跡を目に見える形で写し出す。その作品を《Phonation》(日本語で発声の意)と名付けています。キャンバス上の唇が話しているような奇妙なビジュアルを生むこの作品を、私はとても気に入っています。ではなぜ、口紅を描画材として使うようになったのか? をお話しします。

「自分の顔色がぱっと明るくなった」446の色を初めて塗ってみた時の感想です。“ルージュ ココ 446 エティエンヌ”は、祖母が私の誕生日にプレゼントしてくれたもので、出会いは京都伊勢丹にあるCHANELの店舗でした。色の見た目は深みのあるワインのような赤色で、マットなのに艶がある独特の質感です。デパートの慣れないコスメカウンターで緊張しながら店員さんに塗ってもらったその色は、大人っぽい色だからきっと20歳そこそこの自分には似合わないだろうな、という第一印象を打ち砕きました。少しだけ大人びたような明るい顔色をした自分が鏡の前にいたのです。驚きと嬉しさが混じり合った体験でした。試して初めてわかることもあるもので、今でもこの色を好んで使っています。ですがこの時はまだ、口紅が制作の相棒になるとは思ってもみませんでした。

《Phonation -palindrome-》2021年|3:59 動画撮影・編集|守屋友樹

《Phonation -palindrome-》2021年|3:59
動画撮影・編集|守屋友樹

2015年ごろ、作品のアイデアとして音声を録音以外の形で保存しておけないだろうかと考えるようになり、様々な実験を繰り返していました。ある日、いつものように化粧を落とす際にティッシュで口紅を拭うと、そこには転写された自分の口紅の痕跡があることに気付きました。ティッシュの上で大きく開いた赤い口に話しかけられているような錯覚に陥り、これは面白いと思いキャンバスの上でも試してみたのです。それからというもの、制作で口紅を使うようになりました。“ルージュ ココ 446 エティエンヌ”の良さは、色だけではありません。いつ塗布しても、かさつきもべとつきもなくちょうど良い粘度。何より自分が普段から化粧で使用していたため、とても扱いやすいのです。ポケットに入る軽さとコンパクトさから、いざとなれば口紅1本だけで搬入に行くこともできます。

音声を保存する作品を作っているなら普段から話すことが好きなのか、と言われるとそうでもありません。私は子供のころから口数の少ない子どもでした。発言が間違っていたらどうしよう、こんなことを言って嫌われたら、という臆病なところがあり今でも口をつぐむことがよくあります。自分の考えを声に出すことは非常に勇気がいるのですが、だからこそ音声という存在に惹かれるのかもしれません。口紅を塗り発声を保存すると目に見える形になり、自分はこんなことを考えていてこの形に口を動かして発言をしたという事実が残ります。臆病なくせに、自分はこの“発言した”という事実から逃げられないことを心のどこかで面白いと思っていて、制作後は爽快な気持ちにさえなります。それは開放感と言ってもいいかもしれません。口紅を塗ると、このような強気な行動ができてしまう。これは一体なぜなのでしょう。

ここで、冒頭でお話ししたシャネルの話に戻ります。第一次世界大戦、第二次世界大戦の戦禍を跨いでもなおシャネルの思想は揺らがず、「シンプルで実用的、着心地が良く、無駄がない」デザインのファッションを発信し続けます。自分の体を自分の意志によって動かせることの権利を何よりも重要視したココ・シャネルは、ファッションという面から多くの人々の身体と思想をも解放しました。考えることを止めず、自分の身体と対話を続けること。これを社会へ発信すること。シャネルの考えは、手のひらに収まるほどのごく小さな口紅にも詰まっているのだと、私には思えてならないのです。私はシャネルという勇敢な一人の人間が作った口紅、“ルージュ ココ 446 エティエンヌ”と出会ったからこそ、《Phonation》を制作できるようになったのです。

口紅のようなささやかな道具でさえも、使い続ければその人の人生を左右するほど大きな影響を与えます。だからこそ妥協せず、自分の考えにフィットするものを選び続けることが重要なのでしょう。


林 葵衣 (はやし・あおい)
1988年、京都府生まれ。美術家。京都在住。
京都造形芸術大学卒業、修士課程修了。
音声をはじめとする身体のふるまいに独自の形を与え提示している
2020年度第4期常設展「画家の痕跡」 高松市美術館、2018年「VOCA展」上野の森美術館に参加。
2015年第63回芦屋市展吉原賞、2022年第1回白髪一雄現代美術賞を受賞。
https://www.hayashiaoi.com/