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アネモメトリ -風の手帖-

風信帖 各地の出来事から出版レビュー

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#243

標高900メートルの記憶
― 岩手県八幡平市

岩手県盛岡市内から車で1~2時間程北へ行くと、秋田と岩手にまたがる広大な高原と山地が広がっています。一帯は八幡平(はちまんたい)といい、十和田八幡平国立公園の一部を形成しています。夏にはトレッキングや登山に最適で、秋には紅葉の景勝地としてドライブの定番コースにもなっています。周辺にはキャンプ場やスキー場もあり、雄大な自然を肌で感じられる場所です。
ここを岩手側から秋田側へと、八幡平アスピーテラインというドライブコースを進んでいくと、途中、岩手側の標高900メートル程の場所に「緑ガ丘」と書かれたバス停がポツンと立っています。訪れたのは
10月下旬。ドライブコースを外れてそちらに入ってくと、八幡平の峰を背に秋草が茂る広々とした高原へ出ます。そしてそれと同時に突如、黒々と廃墟と化したコンクリート造の建造物群が立ち現れます。その光景はまるで、映画や漫画に登場する人類が終末を迎えた地上か、或いは日常的にテレビやネットで映し出される、戦争で攻撃を受けた都市の映像と重なります。ただしここは標高900メートルの山腹。紅葉した木々の鮮やかな色合いと、暗く沈んだ無機質な壁面のコントラストは一見異様で不気味です。しかし廃墟群全体が見えてくるにつれて茶色く染まった山腹に溶け込んでいくそれは、冬を前にした山の少し強く冷たい風に吹かれながら、そこに建っていることが当然のように静かに佇んでいるようにも見えます。

高原の斜面に廃墟群が建ち並んでいます

高原の斜面に廃墟群が建ち並んでいます

廃墟と色づいた木々のコントラストが印象的です

廃墟と色づいた木々のコントラストが印象的です

この場所と周辺一帯は松尾鉱山(標高7401030メートル)の跡地で、近代化産業遺産に指定されています。松尾鉱山は明治15年(1882年)に硫黄の大露頭が発見され採掘が始まります。大正3年(1914年)、松尾鉱業株式会社が設立され、硫黄の採掘と精錬が本格化、また暫くすると硫化鉄鋼の採掘も始まります(註1)。その後採掘の機械化もあって生産量は増加の一途を辿り、昭和10年代にはついに国内需要の約8割を占める一大硫黄鉱山となります。埋蔵量2億トン以上とわれるこの鉱山は、その生産量から「東洋一の硫黄鉱山」とまで呼ばれたそうです(註2)。
鉱山の規模の拡大に伴って、社員や採掘作業に関わる従業員の数も増えていきます。彼らやその家族は主にこの鉱山周辺に暮らし、昭和28年~33年(1953年~1958年)頃にはその総数は1万5千人に達します。木造住宅の他、その当時最先端だったセントラルヒーティングなどの設備が備わった鉄筋コンクリート造の寮やアパート、小・中・高校、卒業生対象の職業訓練所、会社直営の大規模な売店、食堂、病院、さらにテニスコートや、映画館などが備わる会館、ホールなどがありました。硫黄輸送のため作られた鉄道は電化し、上野駅からスキー列車の直通運行も行われます。また「東京ブギウギ」で有名な笠置シヅ子など、多くの芸能人が公演などで訪れたといいます。それはもはやひとつの都市の様相を呈していました。ただしこうした鉱山都市の形成や発展は、単なる人々の経済活動に伴うものというより、鉱山会社の福利厚生の側面が大きかったようです。初代社長の中村房次郎と息子である2代目社長の正雄は「この場所に、東北の地に、立派な理想郷を築きたい」という夢を持ち、社員の福利厚生に力を入れていました。松尾鉱山は「雲上の楽園」と呼ばれるまでになります(註3)。
しかし、そのユートピアも永遠には続きません。貿易自由化や石油由来の回収硫黄の登場により、昭和44年(1969年)には事実上閉山します(註4)。また、ただ廃山となっただけではありませんでした。鉱山では大正後期から鉱毒水問題が表面化していましたが、対策が不十分だったために、昭和8年(1933年)頃には採掘によって出た強酸性水がそのまま付近の赤川に流出。さらにその先の北上川にまで流れ込み、これらの河川は茶色く濁って盛岡以南まで届き、大きな社会問題になりました。会社は更なる対策と共に、多額の賠償金を支払い続けることになります。廃山し会社が倒産したことで義務者不在の鉱山となった後も鉱毒水は流れ続け、これは現在にまで及びます。今は国の補助で県が建設し、JOGMEC(註5)が運営管理を行う中和処理施設によって、絶え間なく鉱毒水の中和処理が行われています(註6)。
最初に目にした廃墟の建造物群は、鉱山の従業員とその家族のためのアパートでした。バス停が示す通りここは緑が丘(以前は元山)と呼ばれており、そこから名付けられたこの緑が丘アパートは、丁度昭和26年~31年(1951年~1956年)という鉱山都市の最盛期に11棟建てられたものです(註7)。これらのアパートの窓が向いている先に鉱山があり、現在は両者の間に中和処理施設と貯泥ダムがあります。

都市が広がっていた一帯。現在は奥の方に貯泥ダムがあります

都市が広がっていた一帯。現在は奥の方に貯泥ダムがあります

雲上の楽園とまで謳われた鉱山でしたが、麓の街では鉱害問題を引き起こしていたことは何とも皮肉です。そしてその重い代償を現在まで払っていることは、八幡平の美しい自然や、県内を流れる北上川の清流からは想像し難いことです。またそれと同じように、ここに繁栄を極めたユートピアがあったという事実は、半世紀がたった今のこの場所からは夢のように感じられます。
緑が丘から少し下った場所に八幡平市松尾鉱山資料館があります。この資料館の一室には、当時鉱山にあった学校に通っていた生徒たちの同窓会の写真が並んでいました。繁栄と衰退、成功と過ちなどの言葉だけではすくいきれない、松尾鉱山の人々の日々の生活の記憶と思い出が、このユートピアが存在したことの確かな証です。
中和処理がいつまで続くのか、終わりはあるのか定かではありません。この廃墟群もいずれは朽ちるのでしょうが、それがいつなのかもわかりません。どちらも永い時間の先にあるのでしょう。高原にはどこか時が止まったような、独特の空気が流れています。

道沿いに建つ廃墟。長い年月のうちに成長した木々が窓から枝を伸ばしています

道沿いに建つ廃墟。長い年月のうちに成長した木々が窓から枝を伸ばしています

自然が美しい景観をつくる八幡平

自然が美しい景観をつくる八幡平

(註1)
硫黄や硫化鉄鋼は合成繊維、農薬、肥料、化学薬品などに使われます。

(註2)
いわての文化情報大辞典「松尾鉱山」、http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/cs27202311月8日閲覧)
展示配布資料『松尾鉱山の歩み』八幡平市松尾鉱山資料館、2023年。

(註3)
展示配布資料『松尾鉱山 理想郷 ~標高900mで栄えたまち~』八幡平市松尾鉱山資料館、2023年。

(註4)
展示配布資料『松尾鉱山の歩み』八幡平市松尾鉱山資料館、2023年。

(註5)
JOGMEC 独立行政法人エネルギー・金属鉱物資源機構
https://www.jogmec.go.jp/index.html

(註6)
JOGMEC 独立行政法人エネルギー・金属鉱物資源機構「旧松尾鉱山新中和処理施設の運営管理」、https://www.jogmec.go.jp/mp_control/matsuo_mine_001.html2023年11月8日閲覧)。

(註7)
展示配布資料『松尾鉱山 理想郷 ~標高900mで栄えたまち~』八幡平市松尾鉱山資料館、2023年。

(大矢貴之)