アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#98
2021.07

未来をまなざすデザイン

3 それぞれの受け継ぎかた 長崎・雲仙市
1)拠点をつなげる
デザイナー 山﨑超崇さん1

デザイナーの山﨑超崇(きしゅう)さんは、歴代のアシスタントのなかで最も長くSTUDIO SHIROTANIに勤めた。7年にわたって仕事をしながら、食事や遊びの時間もともにして、地域の取り組みにも一緒に参加。家族のように近しい間柄だった。
山﨑さんは熊本の高校を卒業後、福岡で不動産会社に勤めるがじきに退職。インテリアの専門学校に通っていたときに城谷さんに出会い、衝撃を受ける。その勢いで小浜にやってきて、STUDIO SHIROTANIのスタッフとなった。城谷さんの熱心な「ファン」も自認する。

山﨑超崇さん

山﨑超崇さん(撮影:尾崎翔)

———基本的にSTUDIO SHIROTANIは仕事のジャンルがないんです。グラフィックから建築系、なんでもやるんですが、内容もその都度変わっていくなかで、城谷さんの判断する基準みたいなものに興味が尽きなくて。気づいたら7年、狭い事務所で一緒の時間を過ごさせてもらいました。

「タイミングも計り損ねたんですよね」と笑うが、城谷さんを慕い、スタッフとなった山﨑さんにとって、城谷さんのそばにいる意味はことさら大きかったのだろう。チラシ制作のような小さな仕事からホテルの設計まで、経験を積み重ねるなかでさまざまなことを学んできた。
STUDIO SHIROTANIは卒業したが、山﨑さんが小浜に来てからずっと変わらないことがある。刈水庵のすぐ近くの家に住み続けているのだ。ここもまた、過疎地域を活性化するプロジェクト「刈水エコヴィレッジ構想」の拠点のひとつでもあった。

———エコヴィレッジ構想を始めるにあたって、刈水の空き家をいろいろ見ていたんですが、すごく扱いやすい家が何軒かあったんですね。そのうち1軒は刈水庵に、もう1軒は若者棟にするつもりで借りたんです。そのときはまだ若者が僕しかいなかったので、若者棟にひとりで住むことになりました。
その後は古庄(悠)くんとか、カレーをつくる尾崎(翔)くんが刈水庵の2代目の店長をやっているときに一緒に住んでいたり。それから地熱エネルギーの研究をしている山東(晃大)くん、彼は今小浜のキーパーソンでもあるんですけど、小浜に来て半年はここに住んでいたりとか。僕らの活動と地元、そして外部をつなぐ拠点です。ゲストハウスではないんですけど、ゲストにも泊まってもらう場所として使っていたんですね。

20代、30代が数人で暮らす生活は「長期合宿」のようで楽しそうでもある。そこに、日本各地や世界から、城谷さんの知り合いをはじめ、さまざまなゲストもやってくる。なかなか会えないような著名な方々とも深く語らう時間を持つ一方で、山﨑さんや古庄さんたちは、刈水の住人との近所付き合いも重ねていった。おじいちゃんやおばあちゃんがおかずをおすそ分けしてくれたり、雨が降ってきたら洗濯物の取り入れの心配までしてくれる。また、ごく自然に地域のゴミを拾うふるまいなどに学ぶことも多かった。小浜に入った若者たちにとって、ここに住むことは広い外の世界とつながりつつ、土地になじむ時間を過ごすことでもあったのだろう。
そのような時を経て、この家は現在、若者たちが共同で住む場所ではなくなった。山﨑さんが独立し、テキスタイルデザイナーの伊藤香澄さんと結婚。ここで仕事と生活を営むようになったからだ。

———本当に家がいいんです。大家さんがちゃんと残してくださったおかげですね。刈水に住んで7年、8年ずっと使わせてもらっていて、「もう買ってもいいんじゃない?」って話になって。すごく安い家賃でお借りしていたので、少額払い続けるよりはいっぺんにお金を払ったほうが、大家さんの人生残りの時間で何か使えるかとも思って、購入しました。今は僕らの持ち家です。

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山﨑さんの家の外観と庭。ちょっとした置物などにも、この家を慈しむ心がにじみ出ているよう

刈水庵のすぐ近くに住み続けてきた山﨑さんが独立して、その家で開業する。城谷さんはさぞ嬉しかったに違いない。
もっとも、それは山﨑さんに限らない。前回紹介した古庄さんや尾崎さんをはじめ、城谷さんの影響を受けた若者たちは一足先にSTUDIO SHIROTANIを卒業して、自らの意思で小浜に根づき、新しい拠点をつくっていた。その点と点のつながりは、城谷さんの思い描いていた状況のひとつだったのではないだろうか。
それは海外の、とあるまちの成り立ちにも通じていた。

———城谷さんと一緒にフィンランドのフィスカルスに行ったんですが、そこは芸術村なんです。アーティストが100人くらい住んでいるところなんですが、その村は住民を募集したりはしない。「興味あるんだったら、ここに来ない?」とひとり、ひとりに声をかけ、良い人材をひとりずつ増やしていく感じだったんですね。
城谷さん
にもそういうところはあって。一本釣りじゃないですけど、興味を持った人に声をかけて、足りないジャンルを増やして、という感じで。ちょっとだけコミュニティをつくることを意識していたというか。そのための土壌づくりは城谷さんがしていましたし。小浜のもともとの地の力も生かして。

フィスカルスはヘルシンキから時間半ほど行った小さな村だ。森と湖に囲まれた自然豊かな環境で、陶芸やガラス、テキスタイル、家具などをつくるアーティストが暮らしている。
美しいこの村は、かつて製鉄で知られていた。製鉄会社の移転で一時は廃村の危機に瀕したが、製鉄所跡や牛小屋、時計台、洗濯場など、使われていない場所を利用して新たにクラフトヴィレッジを立ち上げたのである。
フィスカルスの担当者は小浜に興味津々だったという。過疎の地域に若者たちが根づき、クリエイティブな動きが生まれているようすに、自分たちと通じるものを感じたのかもしれない。
話し合いを経て、城谷さんはフィスカルスで小浜の展覧会を、そしてフィスカルスの展覧会を小浜で、という展開を考えていた。「利益にはならないけれど、自分たちのやっている活動を広げられるから」と。目先の利益は生まなくても、その少し先には新しい何かがきっとひらける。城谷さんはいつも、未来をふくんだ今を見ていた。