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アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#86
2020.07

小さいこと、美しいこと

3 「美の基準」とともに、まちの物語を編みつづける  神奈川・真鶴町
4)かっこいい「まちの生き方」に惹かれて
真鶴町役場 まちづくり課・卜部直也さん1

高台から真鶴を眺めると、家々がすり鉢状の地形に沿って並んでいるようすがわかる。商業用のビルやマンションなど、景観の広がりを断ち切るような高い建物もなく、家々のあいまに茂る樹木もふくめ、全体が調和していて目にも心地よい。それは昔ながらの真鶴の風景であり、その眺めが損なわれないように制定された「美の基準」あってのものだ。

最後に、「美の基準」とまちのありかたについて、行政の担当者にも話を伺ってみた。
卜部(うらべ)直也さんは「美の条例」に出会ったことがきっかけで、2000年に真鶴町役場に入庁。「美の基準」を含む「美の条例」の担当となり、10年間運用にたずさわった。
2000年といえば、地方への移住や「生活風景」という観点もまだ一般的ではなかった。「美の条例」が制定されて7年目、当時はどのような状況だったのだろうか。

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卜部直也さん

———砂漠に水をやるような感じでしたね(笑)。耕す期間でした。今こうやって芽が出てくるために、硬い土を耕す期間だったと思います。
入庁してからの僕の10年間は、「美の条例」の理想と現実があった。町民が知らないという事実があって、制度も十分に機能していなかったんです。
一番苦労したのは、「美の基準」という道具がそれまでの行政になかったというところですね。高さ制限10メートル、セットバック1メートルとか、数値基準の景観はわかりやすいし、指導もしやすいじゃないですか。でも「美の基準」は抽象的な基準なんです。こちらから具体的な指導はしにくく、「なんでお前が決めるんだ!」ってなる。だから、これは本としてはすごくいいものなんですが、ルールとして使うのが大変だった。

卜部さんと「美の条例」の出会いは大学生のころにさかのぼる。東京の大学で地方自治を学んでいたある日、新聞の社説の見出しが目についた。「小さな町の大きな挑戦」。そこで紹介されていたのは、各地にリゾートを開発するという国の施策に反して、真鶴の風景を守るために独自に条例をつくろうとするまちの取り組みだった。興味を抱いた卜部さんは、すぐ真鶴にやってきた。『美の基準』を読んだのも、そのときだった。

———『美の基準』の本自体が、役所の資料には見えない。絵本とか文学に近い。また、「コミュニティ真鶴」(「美の基準」をモチーフにした公共施設)は木と石でできたオーガニックで、ヒューマンスケールというところにも惹かれた。なによりも、こんな小さなまちが国に物申して戦いながら、自分たちでやっていこうとする「まちの生き方」がかっこいい。自分自身もその大きな挑戦に入りたいなと思い、縁があって真鶴に入庁したわけです。

真鶴に「美の条例」が生まれたきっかけは、バブルの時代に施行された「リゾート法」だった。投資目的などのリゾートマンションの建設が近隣の市町ですすむなか、真鶴は当時、新しく町長となった三木邦之さんが通称「水の条例」を制定し、事実上大規模マンションを建てられないようにした。そもそも真鶴町は自己水源が乏しく、隣町から水を一部供給してもらっている。集合住宅ができ、人口が大幅に増えると、住民の水源の確保はいっそう大変になってしまう。
そうした物理的な問題とともに、従来のまちなみや生活が壊されてしまうことを危惧して、「水の条例」に続き、「美の条例」が制定されたのだった。

———学生時代、地方自治の勉強をしているなかで、地方で実際にあるべき姿を示して国の制度とか政策を変えていくアプローチがあることを学びました。「美の条例」は都市計画に大きな一石を投じて、わたしが入庁したあとも、景観法という法律にも影響を与えることができた流れがあります。

昨年、卜部さんは中学3年生の授業で、大変な困難も伴った、これまでのまちの取り組みについて話をした。授業後に感想を聞くと、「真鶴がイケメンだと思った」という声が男子学生からあがった。嬉しい言葉だった。まちにも生きざまがあるとしたら、たしかに、国を相手に変わらないありかたを貫いてきた真鶴は、かなりの男前だろう。

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公共施設「コミュニティ真鶴」は真鶴の美の象徴的存在。屋根の上の装飾は魚の骨がモチーフ