3)ひとの交流やつながりが美しい
映像作家・松平直之さん2
地域を紹介する映像を撮るにあたって、松平さんが目指しているのは「民藝のような映像」である。暮らしの延長線上で、ありのままにそこにあるひとと風景をすくいとる。それは、その土地に寄り添いつつ、客観的な視点をもって、新たな魅力を引きだすことでもある。
———つくりあげたものって、どうしてもリアルではない。リアルなものがかっこよければ、それが一番いいわけで、そういう意味ではこのまちはすごくドラマティックなんですよね。
撮影していて気がついたんですけど、真鶴はすり鉢状の地形に沿うように低層の家が並んでいるので、どこからでも海が見えるんです。だから、午前中は太陽が2つあるんですね。空の太陽と、海に反射した太陽と。レフ板が当たっているような感じで、すごく透明感のある映像が撮れるんですよ。
日常にある海の景色。まちのひとたちにとっては当たりまえかもしれないが、真鶴らしい、かけがえのない風景の一部だ。それを、松平さんのように外から来たひとが文字や映像などで言葉にすることで、あらためてまちのひとに差し出してみせる。そこではじめて、「かけがえのなさ」は共有されるものとなる。それは、「美の基準」のありようにも通じている。
———地域の映像を撮るときに、最初に「このまちのコミュニティってどんなだろうな」って考えるんです。
真鶴の場合はコミュニティが装置としてまちのなかに組み込まれているというか、コミュニティが生まれやすいつくりになっている。例えばいろんなところにずっと座っていられる場所があったりとか、お土産に持って行けるようなみかんがあったりとか。
ひととひとが交流・交換し合うことに関して壁がないんですよね。家々の垣根が低いからひとの気配がわかって入りやすかったりとか、けっこう遠くやけど絶対あのひとやからって手を振ってみたら振り返してくれたりとか。ひとの交流、ひとのつながりが美しい。「美の基準」はそれを空気のように醸し出す基準。とするなら、僕もそこから得たものを映像のなかに取り込んで、もっと良い映像が撮れないかなって思いますね。
もとからの住民と、松平さんや真鶴出版のように、まちのことを発信している移住者と。「美の基準」は双方をつなぎ、より豊かなまちへと向かうための拠りどころであるように思える。
松平さんはこの先、さらに多様なコミュニティが生まれると考えている。
———例えば、小さな子どもをもっているお母さんたちが、役場とか学校とか関係なしに直接つながって、子どもを集めて磯で勉強会をしあう動きが生まれていたり。監視員がいて管理されている海岸とかではないので、いつまでいても怒られないし。
また、真鶴出版の川口くんたちと、真鶴の自然を使ってなにかやりたいねと、真鶴のことをもっと知るための部活動みたいなことを始めたりとか。
役場が用意するものではなく、住んでいるひと同士が惹かれ合ってつながっていくことが、増えていきそうな予感がしています。
「美の基準」は答えではない。このまちやコミュニティのありかたを、発展的に持続するための装置として働いているのではないだろうか。
———映像制作の際にお世話になった、元まちづくり課のミッキーさん(現・教育課長の岩本幹彦さん)が「美の基準」についておっしゃっていたのは「バッファー」でしたね。余白、余地がある。ひととひとが譲り合ったり、重なり合ったりするような余白がいろんなところにあるのが「美の基準」の特徴なんじゃないかって。階段ひとつをとっても、階段と塀があればいいのに、細長い土があってから階段があったりするんですよね。そこも土のまんまでいいんですけど、花を植えたりと、いかようにでもできたりとか。道ひとつにもそういうバッファーがある。プライベートな場所なのか、パブリックな場所なのかよく分からないけど居心地がいいから長居しちゃう、みたいな場所があったりとか。
まちの魅力探しって宝探しに似ているじゃないですか。まだ知らない土地に行って、そこの魅力を見つけて編集してかたちにすることで光を当てる。当てるっていういい方はおこがましいんですけど、自分が見たいところに光を当てて、発光してもらう。という意味では、もしかしたら真鶴は宝が見えやすいのかもしれないですね。
松平さんは、東京にいたころには、思いもよらなかった仕事と生活のありかたを見いだした。「自分たちのまち」と思える場所で、お金ではないところでひとがつながり、何かが得られる。そのなかに身を置くことはとても安心だ。そのうえで、自分のできることで人々をつなぎ、地域の魅力を掘り起こし、さらに輝かせていく。それは元からある魅力に加え、さまざまなひとによって積み重ねられた時間を映し出す行為でもある。