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アネモメトリ -風の手帖-

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特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#32
2015.08

状況をデザインし、好循環を生みだす

前編 つくり手と一緒に考え、つくり、発信する
5)有田焼の新しい時代をつくる その2
たしかな信頼関係のもとに

パレスホテル東京の出店まで10ヵ月。柳原さんとのブランド開発が決まってからは、百田さんは他の仕事をすべてストップして、プロジェクトに臨んだ。百田さん、背水の陣である。

——日本の伝統産業はどこも同じ状況にあると思うんですけど、大企業みたいに予算が取れないんですよ。例えば企業は広報やデザイナーを雇うための予算を取って、商品開発していくじゃないですか。でも、伝統産業の会社ってそんな体力はないんです。でも、東京の丸の内からブランドを発信できる状況が整ったわけじゃないですか。パレスホテル東京の出店がなくて、ただブランドをつくって、有田から発信していくっていうのはなかなか難しいですよ。
柳原さんとやることに決まってからは、あまり時間がなかったので、他の仕事は全部切りました。で、すぐ銀行に行って「今年の決算は間違いなく3割落ちます。僕が動かない分30%は落ちる。だからその分の運転資金も含めて出してくれ!」「これで勝負するから!」と。約2年ぐらい金を生まない予定なので、銀行をバックにつけておかないとできないじゃないですか。
本当にやるときには、今までのものを切らないとできませんよね。今までのものを今まで通りやりながら、他のこともやるなんてできないんですよ。でもわかっていてもひとはそれができない。怖くて切れないんです。でも、有田のこの50年は僕のなかで終わったと判断したんです。これからの50年をつくっていかないと無理だという結論が僕のなかでは出ていたので、これで失敗したらもういいわと思って。本気でぶつかっていってますから、銀行も納得しますよ。後はもう「店も自宅も全部担保に持ってってくれ」って言ってね。

プロジェクトを進めるにあたって、百田さんはひとつだけルールを決めた。
「柳原さんの“つくる”ことに関しては一切口出ししない」ということ。予算などの物理的制限も一切加えないという前提だった。

——僕もずっと焼きもの(器)をやってるし、プロデュースもしてきたから口を挟みたくなるじゃないですか。そのせいで彼が遠慮したデザインにするとまずいな、と。だから、このプロジェクトで「つくる」ことに関しては僕は一切口を出さないって決めたんです。その代わり、窯元たちにはしっかり彼の提案を受け入れてもらって、きちんとつくれる状況をつくろうと。職人だから当然、ああだこうだ言いますよ。「有田の焼きものはこうだ」とか、「こんなの焼きものじゃない」とか。そっちをコントロールすることを僕の仕事にしました。
で、弟が器の作家でセンスが良いので、「俺は口は出さない。判断はお前に任せるから、お前が間に入れ」と。僕は一歩下がって、いい感じで進んでいるかだけ気にするようにしたんですね。弟はすぐに手を動かしてぱぱぱっとできるし、窯元が言うことにも口出しできますから、僕の考えだけを伝えておけばいいんで。あとは資金繰りのことだけ、考えておけばよかったんですね(笑)。

「餅は餅屋」で、制作に関しては全面的に柳原さんを信じ切り、任せたのだった。例えば、有田焼の特徴は色だから、色の得意なオランダ人のデザイナーデュオ・ショルテン&バーイングスを入れたいと言われれば、受け入れる。ブランド展開に80型必要となれば、それだけの開発をする。
予算についても、柳原さんがやりくりして出した、やりたいことをやれるだけの予算を用意してくれたから、柳原さんは制作に集中できたのだった。

——後から聞いたんですが、実は予算は銀行の借り入れ金額のマックスだった、と。もし最初にその話を聞いていたら、僕は80型もつくれなかったですね。きっと40型ぐらいしかつくれなかったと思います。でも、80型あったから、発表するときにミラノ(サローネ)でわーっと出せたんですね。
もうひとつすごいなあと思ったのは、経営者としての物理的な制限を一切しなかったことですね。百田さんとは一切、何も交渉しなかったです。商品の型の数も、お店の案も、設計のことも。設計料も「ふつうだとこのぐらいですけど、プロジェクトで多様だから交渉しますよ」と言ったら、「大丈夫です。それが適正であれば払います」と。「それが柳原さんのやりたい仕事なわけで、お金を減らしてクオリティが下がったら文句も言えないから、マックスでやってください」と言われました。最近は言われますけどね。「柳原さん、予算がないです」って(笑)。

百田さんは父親の急逝後、27歳のときから社長をやっている。「いろいろしなくていい苦労をしてきたんですよ」と笑うが、仕事において、ひとを100%信じきるのは、辛酸をなめてきたからこそ勇気の要ることだと思う。その信頼の決め手は、柳原さんの徹底してクライアントの側に立ち、必要なことをしていく姿勢だった。

——柳原さんのことを信用しようと決めたのは、大阪の事務所に行ったときでしたね。いろんなデザイナーの有名な作品や商品を見せてもらったんです。で、ひとつひとつ見ていきながら「いいですね、でもいいものが売れるとは限らないし、逆に売れているからいいといった話ではないんですよね」と言うんですよ。
結局、デザイナーが満足するデザインが世のなかにはいっぱいある。だけど売れないと企業にとっては何の利益にもならないんですよね。「メーカーに自分のものと思って、つくり続けてもらえて、売り続けてもらえるものをつくるのがデザイナーの役目なんだ」と彼は言いました。最初にそれを僕に全部言ってきたから、それなら彼のやりたいことをそのままさせたほうがいいし、僕が口を出さないほうがいいと思ったんですよ。言われたことが頭に残ってると、そこからデザインのブレが生じるじゃないですか。

これだけの信頼関係を結べることは、そうそうないのではないか。仕事云々より、人間対人間のやりとり、という感じがする。ものをつくらせ、売る立場として、一世一代の大勝負には何が必要なのか、百田さんはよくわかっていた。

——柳原さんと組んだからできたんです。今でもそう思っています。

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有田にて、「スタンダード」シリーズと「カラーポーセリン」シリーズの制作風景。土から開発し、色の吹きつけなど高度な技術を駆使している

有田にて、「スタンダード」シリーズと「カラーポーセリン」シリーズの制作風景。土から開発し、色の吹きつけなど高度な技術を駆使している