2)森林と暮らした74年
山主・延東義太さん2
延東さんは、昭和15(1940)年生まれの74歳。幼いころに父や兄弟が亡くなったため、祖父の甚太郎さんは、孫である延東さんに山の手入れの仕方を教えるようになった。
———中学生くらいから手伝い始めたかなあ。「ヒノキは水分が多いと根腐れするから、太陽のよく当たる高いところに植えなさい」とか「曲がった木はすぐに伐り捨てなさい、伐った分はほかの木が救ってくれるから」とか、そういうようなことを、囲炉裏端で夕飯を食べながら、毎晩、じいさんから教わっとりました。
17歳のころ、その甚太郎さんも亡くなり、高校生にして山を継ぐことに。実家は農業も兼業していたため、定時制高校の農業科に通いながら、毎年、夏休みには下草刈り、冬休みには8mほどもある木に登って枝打ちをした。
そんな折、高校の授業で初めて耕耘機というものを見る。その便利さに感動した延東さんは、高校3年生にして20万円のローンを組み、地区で一番最初に耕耘機を買った。
———20万円いうたら、当時の農家の収入の半年分じゃ。お袋にめちゃくちゃ怒られたけど、こらええもんじゃと思ってアルバイトして買(こ)うた。それまで牛さんが田んぼを耕しよったけど、ごめんなさいと言うて(食肉用に)売らしてもらって。黒毛和牛だったからね。
延東さんが18歳のころといえば、1960年代前夜だ。耕耘機の登場で、まさに日本中の里山において、牛のエサ場としての森林が不要とされ、国が行った木材輸入の全面自由化により、国内林業の行く末にかげりが見え始めた時代である。
———昔は、牛のエサである草が自分の山の分だけじゃ足りんから、村の山も借りてた。でも、それも要らんようになって、村がみんなに山を分けたんじゃ。誰もかれもが山持ちになって、そこから一斉に木を植えたけど、とたんに木の値打ちが下がって、お手上げ。周りに「お前はええな、今すぐ金になる先祖の木があって」と皮肉られよったから、「わしらがどれだけ山の管理に苦労してきたかは計算されとらんじゃないか」と喧嘩したこともある。
林業や農業で食べてきた村が徐々に疲弊し始めたころ、延東さんは高校を卒業。しばらく村役場の臨時職員として働いた後、岡山市の運送会社に勤める。
———農業は継ぐし、山の手入れはひとをちゃんと手配するからという約束で、ちょっと都会の空気を吸いに行ったんじゃ(笑)。オート三輪で、市内のあちこちを走り回りよったよ。
その後、村に戻り、叔父の紹介で村の郵便局に就職。以後40年もの間、畑や山の手入れを続けながら、郵便局員を勤め上げた。村には、延東さんのように農業やサラリーマンを兼業しながら、苦労して山を維持してきた山主が大勢いるそうだ。
延東さんが郵便局を58歳で早期退職したのは平成10(1998)年。その翌年はちょうど、道上正寿さん(前号参照)が村長になり、平成の大合併が始まったころだ。美作市への合併話が持ち上がった時、延東さんはどう感じたのだろう。
———僕は最初から大反対。だって岡山市の運送会社におった時、市町村合併した地域に配達に行くと、どこもかしこも貧相じゃったもん。税金だけとられて中央にお金が集まって、はしっこに行かんのよ。大きくなると、かゆいところに手が届かん。こまい(=小さい)なら、こまいなりの生活ができる。そう思った。ほかの村民も、過半数は反対してたよ。
では、百年の森林構想が掲げられた時の反応はどうだったのだろうか。村に森林を預けるということに、抵抗感はなかったのだろうか。
———うちの山は木がすでに大きいから、預けても1割程度。だから、あまり抵抗感はなかった。でもまあ、村に山をとられるんじゃないかと、いまだにまったく預けんひとはいる。でも、手入れできんじゃろう、65歳以上が40%以上もいる村なのに。地区の会合で僕は言うた。その年齢で、枝打ちや間伐をようやるか? と。村に手入れしてもろて、10年先に2分の1でもお金になって戻ってきた方がええじゃろがと。中学生のころからずーっと手入れをやってきた僕でも大変やのにと。
かくいう延東さんも現在74歳。ゆくゆくは山主を引退することになるだろう。自分が山に入れなくなった時のことは、すでに考えているのだろうか。
———うーん、どうするかな。買うてやるというひとがいるなら売って、宇宙旅行でも行こうかな(笑)。うちも教員をしてる息子がおるけど、隣町の高校へ行くのに下宿しとったから教える暇がなかった。孫もゲームばっかりしてて、とても山に行くような子じゃないし。
あらためて、山を受け継ぐというのは、大変な年月と労力を要し、後継者の人生を左右するものなのだと痛感する。しかしその一方で、妻の勝恵さんと結婚して10年目の時に建てた現在の家が、ほとんど自分の山で育てた木でつくられたものだ、などという話を聞くと、心底うらやましいと思ってしまう。勝恵さんも言っていた。
———人間も動植物と一緒だから、その土地の木でつくったものに囲まれていると、やっぱり落ち着きますよね。山主とかじゃなくてもいいので、山を好きなひとがこの村に住んで、山を生かしてくれたらと思います。
ここで、延東さんの口から、ある人物の名前が出た。
———大島さんには、「いつでも勝手に木を伐ってもええ」と言うてあるんじゃ。僕が木を倒すときも、ちょくちょく見にきよるよ。あのひとやったら、やってくれるじゃろ。
大島さんとは、森の学校と共に学習机ツアーを共催する家具会社「木工房ようび」を立ち上げた大島正幸さんのことだ。折しも、前述の甚太郎ヒノキの伐り株に名前を残していたツアー参加者の親子が、木工房ようびへ学習机の組み立て作業をしにやって来ると聞き、現地へ向かった。