3)前例のないスギとヒノキの家具
家具職人・大島正幸さん1
「さて問題です。この間、伐ってもらったヒノキを丸太にして、だら挽(び)きといわれる方法で切っておきました。つまり、丸太が何枚かに分かれた状態になっています。この1枚1枚を何と呼ぶでしょう」
「板!」
「正解。この板は乾燥させて使います。水分が抜けると木は反ります。だから板は“木が反る”って書くんです。この板同士をくっつけるところを矧(は)ぎ面といいます。この矧ぎ面をまっすぐきれいに取るのに、職人さんの世界では5年かかると言われています。それをなんと今日は、お父さんと僕の2人で、1日でやってもらいます」
田畑の真んなかに佇む、青い屋根のプレハブの建物。ここは、家具職人の大島正幸さん率いる家具会社「木工房ようび」のミーティングルームだ。今回、森の学校と共催する学習机ツアーに参加しているのは、京都からやって来た親子。前回の木の伐採作業を復習し、今日はいよいよ机の組み立て作業に取りかかる。
場所を工房に移し、まずは、工房のスタッフたちと円陣を組んで「エイエイオー!」と掛け声。机の顔となる天板の木表(きおもて)を選び、板に溝をつくり、ボンドを塗って張り合わせていく。矧ぎ面の裁断など、危険を伴う作業はお父さんの担当だ。
司会進行をするのは、大島さん。真剣に取り組むお父さんの姿を、キラキラしたまなざしで見つめる子どもの表情に、心底うれしそうだ。
———このツアーでものづくりの楽しさを知ってもらいたいという気持ちも当然あるんですが、何より、お父さんのかっこいいところを子どもに見てもらいたいという思いがあるんです。その間、お母さんにも家庭から少し離れてゆっくり過ごしてもらえますしね。
午前に机づくりを終えたら、午後は工房のスタッフとかまくらづくりや雪合戦などの雪遊び。夏なら川遊びやスイカ割り、花火をするそうだ。
大島さんは、家具づくりで日本の森林を救うことが本当にできるかもしれないと信じさせてくれる家具職人だ。栃木県に生まれ、土建業を営む両親に育てられた大島さんは、ひとが家を建てる現場を、幼いころからずっと見てきた。
———家という空間的なものを図面という平面に書き起こす両親の姿や、うちの仕事のために出入りしてくれる大勢の鳶職のひとたち、建築費用の200万円を震える手で持ってくるお客さんの姿なんかをずっと見てきました。一軒の家を建てるということは、さまざまなひとの思いや人生を預かることなんだなと。大学では建築を学んでいたのですが、まずは自分で責任を持つことができる技術と経験を積みたいという思いが強くなり、いった ん家具の道に進むことにしたんです。
大学を卒業した大島さんは、あらためて木組み家具の工房に弟子入り。そこで2年間、無給で修業し、岐阜の有名家具メーカーに就職した。
———その会社では家具製作の部署に入ったんですが、最終的には生産管理や営業補助など、ほぼすべての仕事をさせてもらっていました。だって、いい設計すると、それがちゃんと伝わってるか見たくなるじゃないですか。そしたら、「表示ポップをつくりたい」「どこのコストを抑えれば生産にお金を回せるんだろう」と気になり始めて、いろいろな仕事をするようになっていきました。家具製作だけでは、お客さんの顔が見えなかったんです。
そんな折、現在の妻で、間伐材によるプロダクトづくりを志していた奈緒子さんが、ある林業関連の講座で牧大介さん(現「株式会社 西粟倉・森の学校」代表取締役。前号参照)に出会い、「西粟倉村の森林を再生させるプロジェクトを始めるから、参加してみないか」と誘いを受ける。それを機に奈緒子さんと一緒に西粟倉村に見学に来た大島さんは、そこで日本の森林の現状を初めて知る。
———衝撃でしたね。森林がむちゃくちゃ荒れてるんですもん。ぱっと見はきれいなのに、なかに入ったら真っ暗。僕らって普段、工房に引きこもっているので、意外とそういうこと、知らないんですよ。日本って、世界で3番目に森林が多い国なんです。グーグルアースで見てみてください、日本列島はほぼ緑色ですから。それほど森林があるのに、過半数がぼろぼろに荒れてる。家具職人って、木を使ってものをつくる仕事じゃないですか。なのに、森林が荒れてることすら知らなかった。そこで気づいたんです。自分は職人じゃなくて、ただの加工者だったんだ。木のプラモデルをつくっていただけなんだ、って。
その瞬間、心が決まった。
———西粟倉村に見学に来たその日に、「僕がここに来てもいいですか!」って、牧さんを口説きました。宿舎の温泉で、タオル一枚で(笑)。いい家具をつくることで、振り向いたらそこにいい風景があるようにしたい。そういう家具職人になりたい。そう考えて、すぐに岐阜に帰り、次の日に会社に辞表を出しました。
退職金で車を買い、平成21(2009年)8月、大島さんは全貯金と工具だけを持って、西粟倉村にやって来た。
———今思うと笑い話なんですけど、その時の全貯金は28万5,000円でした。荷物はコンテナ2個とスーツケース2個だけ。家は牧さんの家に半年一緒に住まわせてもらったので何とかなりましたが、工房を借りられるアテはまったくありませんでした。でも、何事も初動が一番強いから、すぐに動かないとダメだと思ったんです。今となってはそれがよかったと思ってます。
工房の建物は、当時、村役場の総務企画課長だった関正治さん(前号参照)が見つけてきてくれたそうだ。
———でも、かなりぼろぼろの倉庫で。傷んだ床を一人で全部張り直して、漏電を直し、電気配線を自分で考え、中古の機械を探してきて役場にお願いしてお金を借り……。とにかく仕事を始めないと所持金がどんどんなくなっていくので、もう必死でしたね。
3ヵ月後、大島さんはどうにか「木工房ようび」の看板を玄関に掲げた。実は、工房を探してきた関さんにもこの時のいきさつをお聞きしたのだが、当時、村役場という公的な立場上、大島さん一人のために物件を斡旋するのはかなり難しい案件だったそうだ。そこで、木工で起業したい人なら誰でも使用できる共同工房として希望者を募ったのだが、なかなか上手く集まらなかった。しかし、そうこうしているうちに大島さんがどんどん力をつけ、工房の規模にふさわしい人数の従業員を抱える会社をつくってしまったのだそうだ。
しかしながら、大島さんには、もうひとつの大きな壁が立ちはだかった。当初の使命は、西粟倉村の間伐材で家具をつくることだったものの、長らく建築材として使われてきたスギとヒノキは、家具の素材としてはまったく未知の木だったのである。