3)村が合併拒否を決めた日
———確かピークは昭和50年ごろだったと思います。当時、いいヒノキを山から1本切り出せば5,000円か6,000円になりました。実家は専業農家だったんですが、うちの家も山を持ってましたから、親父と一緒に裏山で木を伐って、カンビキで1本1本下ろしよりました。冬は農閑期ですから、一生懸命に木の枝打ち(節を少なくし、木をまっすぐ伸ばすための枝切り作業)をやって、帰りに1本ずつ引っ張って下ろす。そうして木をためて、春先に売ると何十万円にもなってね。ああ、木というのはええなあ、と思ったもんです。祖父も「困った時には裏山の木を伐れ」と口ぐせのように言っていました。それが今では、樹齢50年以上のヒノキでも1本1,000円、2,000円の世界です。
道上正寿さんは、昭和25(1950)年生まれの団塊世代だ。大学卒業後、実家の農業を継ぎ、農閑期には乳牛や大好きな山の世話をしながら過ごしていたが、農業をめぐる情勢、国の交付金に頼る村の財務体質などに疑問を持ち、議員を経て、村長に立候補。平成11(1999)年から平成23(2011)年までの12年間、西粟倉村の村長を務めた。
———当時の国の起債残高が約800兆円、うちの村で約50億円。周りの市町村もかなりの借金を抱えてました。それまでの村長の仕事というのは、東京へ行って国からお金をもらってくることだったんですね。でも、そうすると体育館ひとつ建て直すのに、必要以上に大きいものができてしまう。大きい体育館でないと補助金が出ないからです。そんなことより、とにかく少しでも節約をして、赤字を減らさなければと思っていました。村にはお金が全然ありませんでしたが、35年間、専業農家でずっと苦労していましたから、財務体質が悪くても全然平気でしたよ。
そしてもうひとつ、気にかけていたことがあった。村の森林だ。
———西粟倉の森林は約8割が人工林で、樹齢平均55年くらいの木が多いんです。よそよりちょっと古い。つまり戦後世代、わたしのおじいさんの世代が植えたんですね。枝打ちや下草刈りに汗しながら、戦後の苦しい時代によくこれだけの素晴らしい森をつくったな、と山々を眺めるたびに思います。ですが今、夕食どきに家の食卓で「山はあかんな」という話は出ても、「山はええなあ」という話は出ません。われわれの世代でも山に入らなくなって15年か20年ほど経過するんじゃないかな。先人がここまで手をかけて育てた山ですから、もう少し大事にできんもんかなと。
木が伐れるようになるまで育つには、少なくとも3世代はかかる。植林した先人たちはみな、それを承知で森林を次の世代に託した。しかし、このままではその思いも、木々も、まったく無価値になってしまう。それを再び付加価値のある森林に戻して、次の世代にパスしたい。山好きとしても、政治家としても、そこに使命を感じた。
そんな村と森林への熱い思いを胸に、村長に就任した道上さん。しかし任期5年目、別の大きな決断に迫られた。美作市への合併話が持ちかけられたのだ。
———わたしが村長になった1999年は、いわゆる「平成の大合併」が始まった年です。国の地方交付金の仕送り先を減らそうと、この合併によって全国に約600あった村が約3分の1に減らされました。岡山県は当初、合併に対して出足がにぶかったんですが、2004年の3月ごろから徐々に騒がしくなってきましてね。
しかし道上さんは、「昭和の大合併」の影響で疲弊した近隣の市町村や、村内に雇用を生むために誘致した大工場が、より人件費の安い海外にことごとく移転し、巨大な工場跡だけ残していったようすを目の当たりにしていた。
———合併したって、いいことなんかひとつもない。大きくなると主体性が持てない。これからは規模を求めない村づくりをしていかなければいけない。そう断固、主張し続けました。
その結果、村民に3回とったアンケートは、すべて6対4で合併反対派が優勢に。そうして、平成16(2004)年8月24日、西粟倉村は合併協議会から離脱。「合併はしない」と決断したのだった。