アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#15
2014.03

ひらかれた、豊かな<場>をつくるために

後編 淡路島・ノマド村
2)自主的にの運営を始めるまで

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茂木綾子さん / ヴェルナー・ペンツェルさんの2階の仕事場

茂木綾子さん / ヴェルナー・ペンツェルさんの2階の仕事場

茂木綾子さんは1969年北海道生まれ。92年にキヤノン写真新世紀荒木賞を受賞し、若手女性写真家として脚光を浴びたのち、活動の拠点を移すために97年にヨーロッパへと渡った。日本ではなくヨーロッパを活動の場に選んだ理由を、茂木さんはこう語る。

———わたしが写真家として活動を始めた頃は、若い女の子の写真家がもてはやされていたのですが、その状況には違和感がありました。自分なりの表現を目指すには、世界観をつくる必要があると思って、そのためにたくさんの体験をしたかったんです。

茂木さんは思い切ってドイツに渡る。映像作家のヴェルナーさんの映像に強い影響を受け、実際にヴェルナーさんに会い、やがて二人は一緒に暮らすようになる。ドイツに住んで8年ほど経ったころ、スイスの資産家の友人から家を買うのでアーティスト村をつくらないかと誘われ、茂木さん一家はスイスの湖のほとりの村へと移住した。最初は茂木さん一家だけで、サーカスワゴンや今もノマド村の校庭に残るゲルで実験的な暮らしを始めた。そうするうち、資産家の友人とそこをアーティスト・イン・レジデンスとして活用しようということになり、スイスの財団から資金提供を受けて、世界中からやる気のあるアーティストを公募してワークショップや作品制作に対して助成金を出す、Laboratoire Village Nomadeというプロジェクトを始めた。
茂木さんはそこで企画書制作や助成金の申請、ワークショップの開催といったコーディネーター的な仕事に携わった。茂木さんが語るレジデンスでの毎日は、刺激的で楽しそうだ。

スイスでは、このゲルで実験的に暮らしていたことも

スイスでは、このゲルで実験的に暮らしていたことも

———畑や果樹園があったので、みんなでりんごを拾ったり労働して、ご飯はつくりたいひとがつくる。多い時で20〜30人くらいいたけど、誰もつくるひとがいなかったらわたしが料理からシーツの掃除まで何から何までやっていました。そこには欧米以外に、日本や南アフリカから来たひともいました。すごく面白かったのは、イスラエル人の美術大学で教えているファシリテーターに来てもらって、イスラエル、パレスチナのプロジェクトを企画したこと。現地では対立しているひとたちや、難しい関係にあるはずのドイツ人とイスラエル人が、こっち(スイス)に来ると別の人種がいるし、そんなことは関係ないっていう態度ですごくリラックスしていました。

国を越えて刺激的なことができるワークショップのようすはまさに「実験的なノマド村」の名前の通りだ。そこでは作品を売り買いしてお金に換えるためのアートではなく、「現代の若いひとたちがアートを通して、普段できないような人間的なことを考えるチャンスというか、普段できないことができる」、アーティストにとっては夢のような場所だった。
しかし、そこもパラダイスというわけではなかった。世界中のアーティストとのネットワークは広がる一方、保守的な土地柄のせいか地域のひとたちとの交流はほとんどなかった。同じく、プロジェクトの資金提供者であるスイスの財団にも理解者は少なかった。

———スイスの財団のひとたちもアート畑のひとじゃないし、興味がないと理解できないっていう問題があって、なかなかわたしたちの活動が分かってもらえない。色々喧嘩しながら、やっぱり理解し合えない部分があって、4年経って「これ以上は無理かな」という限界に達したので、根本的に理解してもらえないひとにお金を出してもらうという図式が間違っていたのかなって思うようになりました。

茂木さんたちはLaboratoire Village Nomadeの活動で助成金を申請したり、企画書を書いた経験から、自分たちも自主的にそういった場が運営できるのではないかと思い始めた。そして、目を向けたのが日本だった。というのも当時(2009年)、日本の地方都市で動き始めたいくつかのアートプロジェクトの話が、海外の茂木さんにも伝わっており、「日本の方が逆に理解してくれて、自分たちの活動を必要としてくれるような動きがあるような気がした」からだ。
一家は日本に移住することを決め、同じ年には住まい、活動する場所を探し始めた。地方のアートプロジェクトのディレクターを務めていた知人に相談したところ、淡路島を勧められた。知人が淡路島を勧めた理由の一つには、淡路島アートセンタ—(以降aac)というアートNPOが活動していたため、ある程度アーティストが受け入れられる下地が整っており、aacも淡路島に移住するアーティストを求めていたという事情もある。茂木さんの移住話に乗り気となったaac側も、熱心に移住を勧め、そこから具体的なことが動き出した。当時aacの理事長だったやまぐちくにこさんは、コーディネーターとして候補地の選定や移住先となる淡路市との調整などを取り仕切った。茂木さんは夏には下見に訪れ、アトリエやオフィスに適した廃校があることや淡路島の温暖な気候、地元のひとたちのオープンな人柄に惹かれ、長澤に初めて来たときに感じた「すごい気持ちよかった」という直観を頼りに、淡路島に移住を決めた。11月、茂木さんたち一家は淡路島にやってきた。

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棚田が美しい長澤。空が広く感じられる