8)唐紙、そして町家との出合い
唐紙職人・嘉戸浩さんの場合(2)
京都市生まれの嘉戸さんは、京都嵯峨芸術短期大学のプロダクトデザイン科を卒業後、サンフランシスコのアカデミー・オブ・アート大学のグラフィックデザイン科に入学。卒業後は、ニューヨークのデザイン事務所でフリーランスのグラフィックデザイナーとして活動した。唐紙に出合ったのは、帰国してからだ。
———サンフランシスコの大学では、葛飾北斎とか、枯山水とか、岩井俊二とか、日本の美術、デザイン、映画が教材としてどんどん授業で出てくるんです。友達にも、「お前にとって富士山はどんな存在か?」なんて聞かれるし。そうして、アメリカに来て日本のことを勉強するようになりました。そのうち、仏教とかお寺とかに興味が出てきたんです。それで、帰国してからも京都のお寺さんなどを回っていたら、知り合いのひとが「好きそうやから行ってみたら」と唐長さんを教えてくれたんです。
木版画とも、千代紙とも違う、面白い紙。それが唐紙の第一印象だった。ちなみに、町家というものも、サンフランシスコに行ってから意識し始めたという。
———日本がまだスクラップ&ビルドばかりやっていた1998年頃、サンフランシスコでは「リノベーション」ということばが流行ってたんです。若いひとが、50年代の建て売り住宅に住んだり、古いアパートに住んだり。僕も築100年くらいのアパートに住んでました。それで、僕が京都に帰ってきた頃、一部のひとが「今、町家をリノベーションする活動をしている」なんて話をしていた。その時、あらためて、ああ、今、町家がリノベーションの対象になっているのか、と意識しました。
1998年といえば、町家倶楽部(前号参照)が発足する年の前年。多少の時間のずれはあるものの、リノベーションという感覚はこの時期に各地で盛り上がっていたのだろう。
———その頃って、アップル社とかマイクロソフト社のパソコンが一気に普及して、みんなの意識のベクトルが全部、そちらの方に持っていかれてた時期なんです。デジタルなものに振り切れてしまってた。その反動で、手づくりのやわらかさとか伝統工芸のよさに目が行ったひとも多かったと思います。ぼくもその一人。でも、だからと言ってデジタルを否定するわけではなく、両方好きという感覚なんですね。パソコンを表現として使うのではなく、手づくりのやわらかいものを広めるためのツールとして使えばいいと思う。
そんなある日、嘉戸さんは唐長が求人を出していることを知る。
———唐長さんが複合施設に新店舗を出すということで、商品を企画デザインするひとを募集しておられたんです。これまでの自分の経験も生かせるかと思い、工房に入りました。でも、デザインをするにあたって、唐紙がどうやって出来るのかを知る必要に迫られた。そこでつくり方を学ぶうち、大きな仕事を任されたんです。それをきっかけに、いつのまにか唐紙を刷る仕事の方が増えていきました。
工房に入って5年ほど経った頃、家族もでき、このまま一生お世話になるわけには、と考え始めた頃、美佐江さんがある物件を見つけてきた。
———自転車で通りかかった時、たまたま大家さんが張り紙を張ってはるところに出くわしたらしくて。「めちゃめちゃええとこ見つけたよ」って電話が入ったんです。
それが、現在、店を構えている町家だった。西陣という場所なら、やりたいことがやれるかもしれない。その物件に導かれるように、思いきって独立することになった。
———ここは、北は大徳寺、東は裏千家会館、南は織物の職人さんや会社に囲まれていて、文化意識の高いひとたちが自然と集まってくる場所なんです。このへんをぶらぶら歩いているひとが、お寺のご住職だったり、お茶の先生だったり、機織りや糸染めの職人さんだったりする。ものを見る目を持ってるひとが歩かれているので、僕が紙のこと、絵の具のこと、色合わせのこと、貼り方のこと、ちゃんと説明できるか見たはるんですね。ちゃんとやらなあかん、恥ずかしくないもんをつくろう、という緊張感が常にあります。
立地的に、ほどよく中心地から離れていることも、決め手になった。
———二人でやっているので、押し寄せるほどお客さんが来ても対応できない。それよりも、鞍馬口駅からぼちぼち歩いて辿り着いてもらい、ゆったりと商品を探してもらったり、お話しながら見てもらえる環境でやりたい、という思いがあったんです。