1)写真の町の40年 経済と結びつける
2000年代以降、東川町の写真の町づくりは大きな転換期を迎える。文化事業の枠を超え、行政施策全般へと浸透しながら、「東川らしさ」を形づくる基盤となっていくのだ。その積み重ねが、やがて地域独自の魅力として発信され、移住者や町のファンを惹きつける要因となっていく。この「らしさ」が追求されるようになった背景には、町の存続を揺るがしかねない、ある危機があった。
全国で「平成の大合併」が進んだ2000年代初頭、東川町でも近隣自治体との合併を巡って大きな議論が起こり、2003年にはその是非を争点とする町長選挙が行われた。合併容認の現職候補に対し、当時町職員だった松岡市郎さんが合併反対を掲げて立候補し、当選した。自治体としての権限が失われることへの危機感があったという。松岡町政の誕生は、町の進路だけでなく、役場の組織を大きく変えていく。
松岡町長が力を入れたのが、「写真の町」づくりを経済と結びつけることだった。特別対策室が新設され、現副町長の市川直樹さんが室長を任された。市川さんは当時をこう振り返る。

市川直樹さん
———特別対策室は、何をやるかが明確に定められた部署ではありませんでした。町長から言われたのは、「写真の町と経済、産業を結びつける仕事をしなさい」ということだけ。かなり漠然とした指示でした。ただ、何をするにしても予算がない。そこで、写真関係者に町に来てもらって応援組織をつくったり、産業間連携によって町を売り出したりと、手探りで試行錯誤を重ねていきました。
普段の行政サービスのなかにも、写真の町ならではの工夫が採り入れられていった。
———職員が「写真の町ならでは」を考えながら取り組むこと自体が、写真の町づくりへの参加になる。商店も「写真の町だから何かできることはないか」と考えるようになるし、農業も同じです。今では当たり前になった「顔の見える生産者」の取り組みも、当時はまだ珍しく、生産者の写真をシールにして野菜やお米の袋に貼って出荷していました。そうした小さな取り組みを、少しずつ写真の町づくりに結びつけていったんです。
「写真の町ならでは」は、「東川ならでは」の行政につながっていく。この時期に生まれたのが、東川産米を缶詰にしたお土産「米缶ほしのゆめ」、オリジナルケースと記念写真付きの婚姻届・出生届、ふるさと納税の寄付者を株主と見立てて交流を生み出す「『写真の町』ひがしかわ株主制度」、町内で生まれた新生児に木製椅子を贈る「君の椅子」など。地域資源を活かしながらも、既存の行政の枠にとらわれない独創的な施策が次々と生み出されていった。
「わが町だからこそ」という意識、そして予算や前例がなく、他の自治体で行われていなくても、目的の実現に向けて知恵を絞る姿勢は、やがて役場全体へと広がっていく。産業振興、宅地造成、移住支援、子育て支援、国際交流など、まちづくりのあらゆる局面に「写真の町」の考え方がより深く浸透していった。
本連載の2回目で触れた、2005年に起きた写真の町構想の企画会社の倒産も、「自分たちの町は自分たちの手でつくる」という流れを加速させた。また、文化を切り口にすることで、行政だけでなく、商工会、観光協会、農協などとのセクターを超えた協働が生まれやすくなり、町を挙げて写真の町づくりが進められていった。
こうした積み重ねのなかで、町民のあいだにも次第に共有されていった価値基準が、「東川らしいかどうか」という問いだった。このモノサシのあり方はのちに「東川スタイル」と呼ばれ、東川町の知名度は全国へと広がっていく。

「東川スタイル」は新たなライフスタイルとして全国から注目を集めるようになり、2016年に『東川スタイル―人口8000人のまちが共創する未来の価値基準』(編著・玉村雅敏、小島敏明、執筆・吉田真緒、産学社)として出版。筆者はこの本の編集で東川町と出会った


