アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#128
2024.01

育つ環境をととのえる 人も、自然も

番外編 「のぞく」と「のぞむ」/ 言葉を入り口に  瀬戸昌宣×細馬宏通 対談
5)都市の落とし穴 / 「のぞむ」ということ

細馬 私の住んでいるところの近くにけっこう急な坂があるんですけど、日本のアスファルトの坂って一定以上の勾配になるとOリングっていうコンクリート式にして、丸い穴ぼこを開けて滑り止めにしているのね。コンクリートでツルツルにすると危ないのでOリングをはめて窪みをつけている、と。
前に私が歩いていたら、その坂の上からすごくギクシャクした歩き方の人がやってきて、どうしたんだろうと思ったら、その人はハイヒールを履いていたんだよね。下りてきて、どうやらヒールが片方折れたみたい。完全にギクシャクで、なおかつ坂を半分ぐらい下りているので上がるも地獄下がるも地獄。Oリングを避けるようにすごい屈みながらそろそろ下りてきて。
足もとを見たら、Oリングの溝っていうのは1、2cmの見事な隙間になっていて、一番引っかかっていたのはたばこの吸い殻。あとはプルタブ。プルタブの幅なんだよね。落ち葉だとクヌギとかの小さいやつがはまるのね。ポプラとかは全然引っかかってない。このOリングにトラップされるのはそういった特定の大きさのものなんだけど、ハイヒールのヒールの先はまさにぴったりなのね。それはちょっと発見でしたね。
都市のなかにもそういう落とし穴がある。そしてそのかたちならではの、はまっていくものっていうのが確実にあるんだよね。つまようじも落ちていたよ。ずっと見ていくと人工物の特定のかたちのものがそこに引っかかっている。

瀬戸 Oリングの中にいろいろなものが溜まっているっていうのは、ハイヒールの人を見てから見たんですか?

細馬 そうなんです。ハイヒールがはまるなら他に何がはまっているんだろうと思って。新しい生態系ができる。昔、路上観察学会で「坪庭」ってのが流行ったことがあって。アスファルトにあいたちっちゃな丸い穴に植物が生えてるの。そういう植生ってありうるんだよね。今日歩いてたときに、石垣の隙間の話も出てきたけどね。

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「石垣の隙間は空気と水の通り道。その隙間があることで、木の根と石垣が一体化し、より強固になる。隙間が安定を呼び込む」と瀬戸さん

瀬戸 順調に歩いていない人を見て、穴の中に何が溜まっているか見るっていう(笑)。その人が普通に歩いてきていたら見なかったですよね?

細馬 見ない。それまで私はOリングというものがあるなあとは思っていたけれど、全然意識に上っていなかった。
自分の歩く足もとがどうなってるかって、思わぬきっかけで考え直すことがありますね。私使っているカートがすごく古いんです。そうするとカートの車がすごい音を立てる。それが音を立てすぎるがゆえに、どんな地面を引っ張っているかによって音色が変わる。キュイーンとかって音が鳴って、案の定滑り止めのシマシマが敷いてあった。あれは都市の肌理を感知する装置として面白い。

瀬戸 音に翻訳してもらうっていうのはいいですね。

細馬 ヨーロッパの石畳とかは全然ダメですね。すごい音がしますよ。ヨーロッパの石畳っていうのはあれはあれで迂闊に歩かせないためのシステムなんですかね。

瀬戸 都市部であれだけ人が早く歩けるのって、転ぶ前提で歩いていないからですよね。山だと「転ぶかもしれない」っていうのが常に目前にあって処理しているものが多いから、やっぱりあのぐらいのスピードになるんですよね。都市部だと意思決定しなくてよくなるっていうのがデカいですよね。何かを決めるっていうのは生きる上でコストですもん。一番のコストじゃないかな。

細馬 次の一歩を決めるっていうのは基本的にはコストなんだけど、それが面白いというのが山を歩くということ。

瀬戸 必ず前に進むっていうのがいいですよね。なんだかんだあの風景が見えるわけじゃないですか。下にいるときは「いつ辿り着くんだろう」って不安だし、どんなに低い山でも果てしなく思える。そしてどんなに高い山でも登れちゃうんですよ。それも面白くって。

細馬 それは一歩一歩に注意しているからかな。危ないから、まずは足下を見ながら歩いて、一休みしたときに見上げたり見下ろしたりする。歩いてる間、ずっと見上げたり見下ろしたりできたら、逆に面白くないですよ。ふと立ち止まったときに臨むことができる。
なぜ向こうから「臨む」というのがやってくるのかといえば、歩くのをいったん諦めて、ふと立ち止まるから。そこに切断が訪れる。それまで続いていたものからひととき別れる。

瀬戸 街のなかだと、歩きながら見ちゃいますよね。立ち止まって見ることもあるけど、それが「臨む」にならない。山だと視座がだんだん上がっていく。
やっぱり「臨む」は環境的な行為のなかで生まれたんじゃないかなと思うんですよね。今日出てきた「臨む」とか「覗く」とか、「やってくる」もそうですけど、環境に制御されてできあがった言葉なんじゃないかな。

細馬 何かがやってくる気配って大事かもしれないですね。覗き穴も、そもそも覗き穴があるから誘われるんだもんね。覗き穴という存在が気配としてやってくる。風景がいきなりドンとくる場合もあるけど、風景の手がかりがわずかにやってきて、そこから先はこちらが向かう。で、辿り着くと、どーんと風景を「臨む」。

非日常と日常をむすびつける、細馬さんと瀬戸さんそれぞれの作法。山を歩くことは、都市での生活を浮き彫りにすることでもある。まちの生活は圧倒的に視覚優位で、本の頁をめくる親指の触覚は、人差し指のスマホ操作にとって代わられている。足の裏で地面を感じることもほとんどない。山を歩くことは、「かつて、そうであった」身体感覚が発動される機会なのだった。
さらに、風景とわたしたちとのかかわりについても、「のぞく」や「のぞむ」という言葉で深いところに分け入れた。ふいにやってくる風景を心身で受けとめた後に、こちらからみにいくこと。視覚の往還やみることのグラデーションが織り込まれた言葉は、環境とのかかわりかたに対するヒントにもなりうる。山を歩いたことで得られた着地は、実に示唆に富む。

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善気山の麓にある法然院の山門。境内を「覗きみる」

構成・文:村松美賀子(むらまつ・みかこ)
文筆家、編集者。東京にて出版社勤務の後、ロンドン滞在を経て2000年から京都在住。書籍や雑誌の執筆・編集を中心に、アトリエ「月ノ座」を主宰し、展示やイベント、文章表現や編集、製本のワークショップなども行う。編著に『辻村史朗』(imura art+books)『標本の本京都大学総合博物館の収蔵室から』(青幻舎)限定部数のアートブック『book ladder』など、著書に『京都でみつける骨董小もの』(河出書房新社)『京都の市で遊ぶ』『いつもふたりで』(ともに平凡社)など、共著書に『住み直す』(文藝春秋)『京都を包む紙』(アノニマ・スタジオ)など多数。2012年から2020年まで京都造形芸術大学専任教員。

写真:成田舞(なりた・まい)
山形県出身、京都市在住。写真家、二児の母。夫と一緒に運営するNeki inc.のフォトグラファーとしても写真を撮りながら、展覧会を行ったりさまざまなプロジェクトに参加している。体の内側に潜在している個人的で密やかなものと、体の外側に表出している事柄との関わりを写真を通して観察し、記録するのが得意。 著書に『ヨウルのラップ』(リトルモア 2011年)
http://www.naritamai.info/
https://www.neki.co.jp/