アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#128
2024.01

育つ環境をととのえる 人も、自然も

番外編 「のぞく」と「のぞむ」/ 言葉を入り口に  瀬戸昌宣×細馬宏通 対談
4)視覚から、足の裏の世界へ

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細馬 ふだん東京に住んでいると全部アスファルトなもんで、道が管理されているわけですよ。急な坂には窪みがあって滑らないようになっているし。
人があまり入っていない山って階段も人間の歩幅通りにはなっていない。いちいち段差が違うし、礫岩もそこそこ崩れていたりするし、滑りやすいし。一歩一歩けっこう考えないといけないよね。それが面白いなと思いましたね。ふだん歩くことも管理されているというか、ジョギングや散歩をする道自体が大変整えられている。だからこそあんまり怪我せずにすんでるわけだけれど、一方でそればかりだと考えなくなっちゃうよね。
足を出すこととか、踏み出すということとかが意識に上らなくなっていく。山を歩くって、分節化のチャンスなんだな。次どうやって足を踏み出そうかって考えるのって大事なことですね

瀬戸 山ってかなり鮮明に登って下りてくるのを覚えているんですよね。僕が足袋で登るのはそれもけっこうあって。
登山靴は登山靴で持っているんですけど、最近ってどんどん足底が分厚くなっているんですよ。身体を鍛えるためじゃなくて保護するっていうかたち。保護っていうのは環境とのある種の断絶なんですよね。どんな道でも標準的な状況を維持できるような靴みたいな感じで。その標準の枠組みの外側に出ることが、衣服とか含めてすごく難しくなっているっていうのを感じていて。
不規則なものであったりとか、触った幹であったりとか踏んだ足の感覚とか、例えばシャープな石とかがあると足の記憶が深いわけですよ。「そのときに見えた銀杏の木」みたいな感じで、すごくたくさんの記憶のインターコネクションがある。やってくる状況を自分のなかに呼び込んでいるって感じ。

細馬 山に登ると、足下を見ないと転ぶから目を使う。だけど目で「ここは危ないな」とか「こっちは大丈夫そうだな」とかって思っても、足で着地した瞬間から自分の体重を地面に乗せて、本当にズッといかないかみたいなことがわかるまでに時間がかかるわけですよね。その間にも足裏は着々と今起こっていることを足で考えている。着地してしまったら地面はもう足の裏だから見えない。そこからは視覚じゃなくて足の裏の世界。それをずっとやっているのが妙に面白いなって思っていましたね。
そうは言っても、私もiPhoneのヘルスケアとか使っちゃうと計測の世界になっちゃう。「今日は5000歩歩いた」とか数値化された世界になってしまって、一歩一歩がどうだったかなんて覚えちゃいない。距離と歩数になってしまう。それと山登りはやっぱり全然違うよね。

瀬戸 数値で表すと今度は何かと比べないといけなくなって、急に自分の身体に統計が降りかかってくる。
(人類学者の)磯野真穂さんが「平均人」っていう話をしていて。平均をとると個々の特性みたいなものがどんどん消えていって、平均人の像が出来上がる。でも世の中に「平均人」は存在していないんですよね。そして、平均だと緑、平均を上回ると黄色、さらに上回ると赤みたいになったときに、自分が緑にいると論理的に安心する。さっきの「もう大丈夫」が身体的に訪れるんじゃなくて、脳の活動として行われていくっていうところがあって。

細馬 歩きスマホって「もう大丈夫」だと思うんですよね。この地面はいちいちチェックしなくても大丈夫だし、向こうからの人通りで向こう何秒かはぶつからないっていう目論見のもとに歩きスマホをしてしまうのね。で、思いがけず人が割り込んできたりすると、え!ってなる。「もう大丈夫」脳が発動してる。足はオートマチックに進んでいるし、目は決して道を見ていないっていうことが起きているんだよなあ。何かが向こうからやってきても気づかないよね。

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