アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#128
2024.01

育つ環境をととのえる 人も、自然も

番外編 「のぞく」と「のぞむ」/ 言葉を入り口に  瀬戸昌宣×細馬宏通 対談
3)いつものクセ、ルールを外れる

細馬 一時期、古語辞典が好きで、見開きを全部読むみたいなことをやっていたんです。ふだん言葉を連想するときにあいうえお順で並べて考えたりしないじゃないですか。ある言葉の隣に別の言葉があるときのルールはどちらかというと意味に支配されている。ところが辞書っていうのは「あいうえお順」あるいは「いろは順」に並んでいるので、意味はどうでもよくて音が似ていれば隣り合っている。そうするとさっきみたいに、「臨むと覗くって似ているぞ」みたいな話になる。音が似ているだけなんだけれど、その2つが並んでいると「もしかしたら関係あるんじゃない?」みたいなことが突如わかるんですよね。
大体似た音って何かがあるんだよ。例えばさしすせその「し」は、ひそやかさへの移行と関係がある。「しのぶ」とか「しずか」とか「染む」とか。何やら別のところに潜り込んだりとか、こっちからあっちに行っちゃったりとか。そういうのに「し」の音が関わっていることが多いなって見開きを見ていると気づく。とにかく、自分のルールではないルールで何かを並べている人・ものを見に行くと、いつもの注意のクセでは見つからないものが見つかるんですよね。

瀬戸 日常ってベールのように僕らにかぶさってくるじゃないですか。今日の話でいえば、そういうのも「めくる」ですよね。ふだん、まとってしまっているものをどんどんめくって露わにしていくっていう。

細馬 今はパッケージ化されているから。いま、目の前にあるチョコレートの箱を見ると、もう切り取り線があって、開けてくれと言わんばかり。その中には個包装があって、破いてくれと言わんばかり。オートマチックだよね。やらされている感じがする。こういうのとちょっと違う、もっと分節化していないものがおそらく山にはいっぱいあって、だから山に行くと面白いんだろうなって思いますね。

瀬戸 にいると、「どうにもならないもの」はそんなに頻発しないんですよね。どうにもならないものっていうのは大体、人間がつくり上げた人間のための仕組みの重箱の隅で見受けられるんです。でも、自然とか山でのどうにもならなさって、本当にどうにもならなくて。今日だって、予定していた見たい風景は見られなかった。頂上に着いたら、大文字山の大の字が見えると聞いていたわけだけど、春先にはなかった葉っぱを落とすわけにもいかないし、どうにもならないっていう。

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頂上からは大の字がくっきり眺められるはずが、こんもり茂った木々に阻まれてほぼ見えなかった

瀬戸 僕らは視線を低くすると人はもっと自由になれるのかもしれないなとか、虫を見ていていつも思うんですよね。虫の視点で草むらとかを見ていると鬱蒼としたジャングルなわけで、そこには数多の自由が隠されている。

細馬 天敵が鳥だったりする場合に、齧歯類とか小さいやつらは森とか草むらとかを駆け抜けるわけですね。上から見えない場所に逃げているというよりも、自分たちにとっては親密な場所に逃げているだけなんだけど、結果的には上からの防御になっているんだよな。

瀬戸 なるほど。たしかに逃げているけれど、ずっと相手を意識しているわけじゃないですよね。追いかけられているという状況から逃げているんですよね。

細馬 それが、どこかで突然変わって、今まで追いかけられてきたけどもういいやって。追いかけられることを諦めるというか。人間は言語的に「ここまで来ればもう大丈夫だよ」とかって言っちゃうけど、そのここまでってどこまでだよ、っていう。
昔、尺取り虫を調べているときがあって。尺取り虫は糸で枝にくっついているんですよね。鳥に襲われたり人間が刺激したりするとピッて落ちるんですけど、地面には落ちないで、口から糸を吐いて垂れ下がるだけなんですね。そのあと枝みたいにじっとしているんです。ある一定の時間じっとしているんですけど、しばらくして落ち着いたら、あるとき猛烈にもがいて糸を登っていくんです。突然豹変するあのモードチェンジはなんだろうって。どこかで「もう枝のフリはしなくて大丈夫」っていう瞬間が訪れるんですよね。虫に「もう大丈夫。安心」っていう気持ちがあるのかどうかわからないけれど、ちょっとは待つんですよ。それが面白いなって思って。

瀬戸 進化の過程で、いろんな時間で「もう大丈夫」をやっていたやつがいたんだけど、今生き残っているやつぐらいの「もう大丈夫」がちょうどよかったんでしょうね。長く下にいすぎても喰われたりしてダメだった。
僕らは「もう大丈夫」っていう状況を相当感覚的につくってますよね。

細馬 家に帰るとホッとするとかでもいいんだけど。山に登っていても「この空間ホッとするな」っていう場所もあるし。

瀬戸 斜面を見て危ないなって思ったり。

細馬 そういう不安と安心の波みたいなものがありますよね。「ここならビバーク(露営)できる」とか。

瀬戸 子どもはその辺の感受性が強い気がするんですよね。親側から見ると、何か受け入れられないことがあって子どもが大泣きした、何をやっても泣き止まない、と。ところが目を離した瞬間終わっているっていう。子どもには「もう大丈夫」が訪れて、ここまでがなかったことになっている。
「もう大丈夫」はもしかしたら、それまでからの断絶なのかもしれないです。記憶の長さがどれぐらいかわからないですけど、追いかけられ始めたんだっていうことを完全に忘れるっていう瞬間が「もう大丈夫」なのかも。「なんで走っていたんだっけ?」みたいな状況。

細馬 そうね。それは面白い問題だね。私らはなんでも理由がないとダメって感じがしているけど、単にモードが変わる。別れがやってくる。

瀬戸 そうなんですよ。記憶とか時間との別れが突如として訪れるっていうのがあり得ますよね。

細馬 今まで持続していた何ものかに別れを告げる。「持続はいつ終わるのか」問題。